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 <title type="text">追い求める男</title>
 <subtitle type="text">追い求める男: Recent Entries</subtitle>
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 <updated>2011-08-25T16:06:15Z</updated>
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 <rights>copyright (c) Shurei Satou All Rights Reserved.</rights> 

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 <title type="text">二輪　生続家伝書</title>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">二輪　生続家伝書※この文章は過去　2007年5月に掲載したものです。オートバイを...</summary>
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   <p><strong>二輪　生続家伝書</strong></p>
<p>※この文章は過去　2007年5月に掲載したものです。</p>
<p>オートバイを操るにあたり極力事故を起こさない方法とは何か？</p>
<p>つまり生き残る為に「死に至らないコツ」を次世代の若い人々、またはこれから乗り始めるリターン組の人々（退職もしくは仕事が落ち着きこれから二輪の免許を取る方々）の為教書を口伝ではなく書面にしたいのである。</p>
<p>　自らが己の意志で「乗り、そして生きる」ことを選択していることに対し強い自覚を促すのがオートバイという道具（ツール）である。一方日本国内において年間の自殺者が3万人を超え、1日に約100人の人々が自ら命を落としている計算となる現代社会の中、この「死」に対して敢えて真剣に向き合い考えることが出来るのもオートバイに乗る人間への特典であると私は硬く信じたい。それは、趣味性が高いながらも死ぬ可能性も高い道具（ツール）であるからこそ、「生きる」という奇跡を強烈に感じることが出来るからである。</p>
<p>もはや「気持ちがいい」「開放感がある」「自由の象徴」という陽の当たる部分だけでは、新たにオートバイに乗る人間は年々減るように思う。陽の当たらない「死」というマイナス要素を私はそれでも乗り続け生きている自分に対し存在意義がこの世にあるはずだ　と自ら思い込ませプラス要素へ還元して生きてきた。「死」が存在することのより「生きる」が「活きる」に変わる。当然　日常も変わる。　そんな道具（ツール）は　そうない。</p>
<p>「気持ちがいい」「開放感がある」「自由の象徴」を主体に走るオートバイ乗りを無理に変える必要はない。また、新たにオートバイを乗り始める人間に対して無理に「死」を見つめることは　極めて酷なことであると思う。しかし、「生き残る方法」を知らないで命を落としていく人々を　ただ私は見ているだけなのであろうか。</p>
<p>　私は運よく生き残ることが今現在出来ているが先人達（私にライディングを教えてくれた方々）が自らの体験を通じて私に口伝で教えてくれていたから　という要素がかなり多く含まれる。従って彼らのお陰で私は生きていることであると言っても過言ではない。私自身一度たりとも自分のライディングを上手いと思ったことはない理由がここにある。</p>
<p>つまり「上手」であることと「速く走ること」そして「生き残ること」は其々　別なものなのだろう　と私自身は思うのである。</p>
<p>市場には、「速く走るための方法」は　メディアに数多く取り上げられているが「生き残るための方法」が取り上げられたことがあっただろうか？私の記憶の中ではない。それもサーキットでの走行を主体としたものではなく公道を主体としたものであれば　尚更私の記憶にはないのである。この際、「このタイミングでブレーキを掛け、腰をずらし体重移動・・・」というものは、専門誌やプロインスタラクターやレーサーに任せよう。私が残したいのは別のものなのだから。</p>
<p>例えば、既に故人である私のもう一人の父は「オートバイの車体　もしくはヘルメットの色を目立つ色にしなさい」　と数度に渡り私に忠告してきた。他の人間に走る自分の存在を気付かせる為である。ただ簡単なこれだけのことで車からの右直事故及び巻き込み事故の確立は数割違うはずである。実際に冷や汗を流す体験は　これだけの注意でかなり減るし、私の仲間にも其れを薦めている。そして　何よりその忠告に従っている仲間は　今現在　死んでいない。</p>
<p>また「車を抜く際には、必ず相手のバックミラーかサイドミラーに殺気を送るように」とこれもまた念を押し忠告して頂いてきた。初めてその言葉を聴いたときは　目を伏せ静かに冷笑したが、今なら判る。「動くなよ」と前を走る車に殺気を送ると実際に車は微動だに動かないことが多く事実、私は今も尚生きている。これは「気」を送ると言うと甚だオカルトめいてしまうのでこのように解釈したい。「これから自分が抜かそうとしている車のほんの微々たる変化さえ見逃さず　その動きに集中しろ　」ということなのではないだろうか。</p>
<p>オートバイに乗る方々にとって常識的な滑る路面についても一、 雨の降り始め二、 濡れたマンホール、横断歩道等に使われる塗料の上三、 水分を含んだ落ち葉四、 特に日が出ていない冬季の橋（路面凍結）　五、 高速道路のつなぎ目に使用される極々短い鉄板（特に首都高速環状線）　と　すぐに思いつくものでも五つ挙がったが初心者は知らない。知らぬまま自損事故を起こし死に至った人間は今までどれだけいたのであろうか。また、怪我で済んだが　痛みに懲りてオートバイに乗ることを辞めた人間は何人いるのであろうか？</p>
<p>走る車線についても　どこを走るかにより生存率が変わると信じる。道路標識一つにしても必ず　意味があるからこそ　そこにある。速度標識が30km/hの場所であれば、30km/hで走らなければならない理由が必ずある。その理由こそが注意すべき「生き残る方法」である。</p>
<p>　　これら条項が、私のような若輩者でも　まだまだある即ち　多くの方々の中でオートバイに乗り続け「生き残る方法」が存在しその数は莫大な量となるかもしれない。だが、それを口伝ではなく書面にて編纂したい。</p>
<p>完成した書面は、海外でも通用するであろう。そして車両だけでなく、本当の意味でオートバイと長く付き合う人間を存続させることにつながる文化を日本から発信することが出来るのではないだろうか？　　　家伝書のように</p>
<p>私が古の柳生宗矩のような武芸者あれば、一人で「家伝書」を書ける。だがしかし、若輩者の私には　この考えに共感して下さる方々のご協力が必要である。　自己満足に終わらせない「二輪　生続家伝書」を完成させオートバイでの死者を一人でも減らしたいと切に願う。　この道具（ツール）を愛する方々のご協力をこの場より募りたい。</p>
<p>ただの一人、いや　たったの一人でいい。これを読んで死なずに済むオートバイ乗りが生まれることがあれば私もまた義父　大野氏から初まる「道標」になれるだろう。これこそ本文の中核であり、私の願いでもあり、祈りでもある。一人のライダーの心に残ることが　もし　あれば　これ幸いである。特に20代のライダーがいることを願って・・・</p>
<p>佐藤　秀玲</p>

  </div> 
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 <updated>2010-12-30T23:27:07+09:00</updated>
 <published>2010-12-30T23:27:07+09:00</published>
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 <title type="text">二輪　生存家伝書　　心得之巻</title>
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   <name>shurei</name>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">二輪生存家伝書　　心得之巻※この文章は過去　2007年6月7日に掲載したものです...</summary>
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   <p><strong>二輪生存家伝書　　心得之巻</strong></p>
<p>※この文章は過去　2007年6月7日に掲載したものです。</p>
<p> 「怖い（臆病心）で　終わらせないこと」　　これを心得の一としたい。</p>
<p>まず「怖い」という感覚や感情を「私（オレ）は　怖くなんかないんだ」と否定すること自体　トラブル（事故→死傷）へと導くことを理解して頂きたい。「怖い」を認めること　　これが大前提である。従って「臆病であること」は「怖いを認めること」と同一と解釈したい。</p>
<p>そして「怖い」のが本当に嫌なのであれば　二輪に乗ってはいけない。自らの生存率を少しでも高めたいのであれば、この不安定な乗り物を決して選んではいけないのである。だが、この自らを不安定な位置に追いやる行為自体が深い意味を成すのも二輪である。</p>
<p>　其より先に初めて「そのままで終わらせないこと」が肝要となる。矛盾を感じるかもしれないが「怖い」と認めた後　　では、何が自分にとって怖いのかなぜ自分はそれが怖いのか</p>
<p>それを丁寧であるが迅速に探していく行為を私は推奨したい。</p>
<p>眼が追いつかず怖いのであれば、追いつける速度にまで落とすこと。体が冷えて動かないのであれば、休憩を取り　暖をとること。車体がぶれてしまい怖いのであれば、車体上か乗り方の問題である。異音がして怖い、車体上　何かトラブルなのでどこから異音が出ているか　原因が何なのか追及したい。タイヤが滑って怖いのであれば、滑る理由を見つけること。</p>
<p>あくまでも例ではあるが、「怖いで終わらせない」とはこのような事である。つまり「怖い」という不安要素を丁寧に無くしていく作業が「心得」としての生き残るこつ　大前提である。</p>
<p>心得二「見せてやろうと、やってやろうと　と思うべからず」</p>
<p>人間誰しも自己顕示欲というものが多少なりとも働く。「一つ　隣の人間を驚かしてやろうか・・・」「こいつに自分のいい所を見せてやろう・・・」「〜分であの場所に到着したら皆　どんな顔をするかな・・・」</p>
<p>これは　厳禁事項と心得たい。私が話しているのは、サーキットでの話ではなくストリート（公道）の事であるがウィリー、スピンターン、ジャックナイフ、時速300km/hでの走行いとも簡単に公道で行う人間は確かにいる。そして、尚且つ事故を起こさない人間もこれらの人々の中に確実に存在する。しかしながら　私が「厳禁」と指しているのは　これらの行為　そのものではなく人に見せてやろうとする　正（まさ）しく「心得」の「心」を指している。不埒な「欲」や「見栄」は　行為（ライディング）そのものを曇らせ事故を招きやすい。　なぜか　　　自らの力量を無意識に超えてしまうから他ならない。他人から「遅い」「下手」と例え周囲から陰口を叩かれても「事故」や「死」を招くよりは遥かに良いことであり、口や心　態度が先行し自らの力量を超えてトラブルを起こすのが本当の意味での「恥」であり｢格好の悪いこと｣であることを肝に据えたい。</p>
<p>心得三「自身を疑い　自らを見つめ　そして知ること」</p>
<p>心得二の「力量」の話と通ずる。己の力量を疑うこと、これは大事なことではあるが自ら　力量の現状結果を冷静に評価していくことも大切である。そして生き残るだけでなく、上手くなりたいのであれば現状の自分の力量を正しく理解し、まるで螺旋階段を一歩一歩上るように手に届く範囲で極微量の力量を超えた行為を　自らを疑いながら挑戦していくことである。即効性はまるでないが　数年後　自らが思いもしない高い場所に登っていることに気付くことであろう。一方で乗り始めて直ぐに　速く、上手い　所謂（いわゆる）天才は世の中にいる。　しかし本当の意味での天才は、ライディング技術も無論だが「運」も良いものだ。いくら速くとも、いくらライディングの技術が優れていても死んでしまったのであれば、ここでは意味を成さない。そして何より　自らを天才と信じる凡人ほど哀れな者はない。つまり　自らを正確に知ることは　生きる残ることに相通ずる。</p>
<p>　前回（4月26日）に「上手であること」「速いということ」そして「生き残る」ということは其々　別なことであると私は解釈していると伝えた。「上手」になりたければオフロードやジムカーナで練習するのもいい。「速く」なりたければサーキットに通い、良い師匠に付くこともいい選択だ。これが一般的に効率の良い上達の仕方である。ただし、私自身の解釈の中で「上手であること」を正確に言葉を探すのであれば「無駄の無い、流れるような所作の美しい行為」であり、ある意味　武芸に通ずる。同じく「速いこと」とは　つまるところ「平均時速が他より高い為、到着が他より早い」だけのことである。従って　短い期間、短い区間　に速く、美しいことは　誰にでも出来る行為であると私は確信するが、長きに渡る期間、長い区間　持続し　これら維持させることが非常に難しい行為であると　同様に確信するのである。</p>
<p>長い時間と長い区間　これは生き残ることが出来ている時間として捉えて欲しい。生き残らなければ「上手い」も｢速い｣も存在しなくなる。</p>
<p>まず「生き残る」ことは　自らが　己に気が付かねば「心得」として成り立たないことを　収めて頂きたい。</p>

  </div> 
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 <updated>2010-12-30T23:21:31+09:00</updated>
 <published>2010-12-30T23:21:31+09:00</published>
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 <title type="text">二輪　生存家伝書　　所作之巻　</title>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">二輪　生存家伝書　　所作之巻※以下の文章は、2007年5月24日に掲載したもので...</summary>
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   <p><strong>二輪　生存家伝書　　所作之巻</strong></p>
<p>※以下の文章は、2007年5月24日に掲載したものです。</p>
<p>　　この巻では　二輪に実際、跨（またが）るに当たり、「所作」　身のこなし、ふるまいについて語りたいと思う。</p>
<p>　まず、身なりとしてヘルメットはフルフェイスに限る。時速60km/hを超えたあたりから、国道や有料道路　特に交通量の多い道路ではアスファルト等々の「砂塵」の存在に気付くことであろう。これらが　顔や体全体の皮膚に当たるとピリピリと刺激し場合により集中力を失う。100km/hを超えると痛くなるがフルフェイスタイプであれば問題ない。</p>
<p>過去、私もジェットヘルや半キャップを被っていた時期も正直あったがたまたまフルフェイスを被っていた時に事故に遭遇（右直事故）、空を飛び2台先の車のボンネットへ顎（あご）から激突したが骨は折れなかった。　ただし後日　そのヘルメットをみたら顎から脳天に向け大きな亀裂が入っており、背筋が凍った。　もしこれが普段愛用していたジェットヘルであれば、私の顎は砕け、皮膚はザクロのように爛（ただ）れてしまい直らなかったかもしれない。アスファルトは言わば、卸し金（大根おろしに使う金具）のようなものである。よくスクーター等々で後部座席に半キャップタイプのヘルメットを被せた女の子を乗せているケースをよく見かけるが、「何も考えないか」「知らないか」どちらかである。せめて身近な人間には注意を促したい。女の子の　いや乗せている男の子も含めた　今後の長い人生に影を灯す結果と成りかねないからである。またヘルメットのシールドであるが、これもまた多くのタイプが販売されている。公道を走る人間としては　クリアタイプを強く薦めたい。　どうしても好みとしてスモークがいいのであれば、せめてライトスモークに留めておくべきであろう。我々はレーサーではない。　日中しか走らないとしても天候が崩れ　雨になるかもしれない。先の砂塵も含め　前が見えなければ先に進むことが出来ない、基本的なことを忘れてはいけない。最後にヘルメットの色である。ワイルドなイメージで黒系に人気が集まるのは、無理も無いが「生き残る」ことを前提として考えるのであれば　白、ライトシルバー、イエロー等の目立つ単色をこれも強くお奨めしたい。理由は単純であり、前方を走る車　そして交差点で待機している車に自らの存在を気付かせる為である。これだけで右直事故及び左折巻き込み事故の確立は　かなり減るであろう。ちなみに私が右直事故を起こした際のヘルメットのカラーは　ガンメタである。後に話す、ウェアと車体のカラーであるが　色で目立たす優先順位は　ヘルメットであり　何より優先にしたい。ヘルメットが目立つカラーであれば、車体とウェアはある意味　個人の感性に任せて良い。</p>
<p>服装は単なる長袖での範疇を超え、専用のライダーズウェアを着ることを強く奨める。現在は軽く全天候型のライダーズウェアが販売されているので専門店等々で実際に試着してから購入すること。この際、手首周りと上腕部周りを自由に調整が出来るタイプであること。これは走行時、腕周りが風でばたつきストレスとなり、結果　疲労へと結びつく。また首元までしっかりと固定が出来、少々の雨や風が進入できないものが良い。これが出来るものと出来ないものとの違いは　実際の走行後　疲労度がかなり変わる。またロングツーリングの際　疲労がすぐに溜まれば走行への集中力が散漫となりやすい。更に肘（ひじ）、脊髄周りにある程度のプロテクターが装着されているものであれば尚良い。服装の色は好みではあるが　少しでも不安要素を取り除きたいのであれば　これも目立つ色が良い。汚れやすいが白はやはりリスクを減らすカラーである。</p>
<p>パンツもやはり全天候型でパットが装着された専用のものには勝てない。ジーパンは気軽で良いのだが、転倒時　簡単に裂け更に布の繊維が卸し状に削られた皮膚に入り込む。ただでさえ打撲で痛い中　ピンセットでその繊維糸を抜いていく作業をしたくなければ　やはりライディング専用をお奨めしたい。ましてや皮膚がむき出しになる短パンなどは論外であり、厳禁である。</p>
<p>私はここ20年程、革ジャンパーと革パンツを愛用している。バンソンというアメリカのメーカーのものであるが、正直　重たい。真夏でもこの組み合わせでオートバイを走らせ　様々な人に質問を受ける。「暑くないですか？」　と　そして答えは決まっている。「ものすごく暑いですよ」　「暑いのであれば、革　を着るのを辞めればいいじゃないですか」と必ず聞かれるので「臆病なんですよ」　と笑って答えることが多い。</p>
<p>革は自分の皮膚の代わりに先に裂けてくれる。バンソンは通常のメーカーより革が厚く作られているので　より身体の保護をしてくれる。従って中にある自分の皮膚のダメージが少なくて済む。だからこそ　格好の良さ　以外で大きな理由がある。ただし革は全天候型ではない、夏は気を失うほど暑く　一方以外と思われるかもしれないが冬や雨は　冷気や水分が駸々と浸み込み寒さは倍増してしまう。従って快適さを求めるのであれば最新の全天候型ライダーズウェアには勝てない。私の場合、万が一　転倒した際の身体ダメージの少なさで革を選んでいるだけのことである。</p>
<p>ブーツはサイズが合い、シフトチェンジやブレーキがスムーズに行えるものであれば何でも良い。しかし　紐革靴（ひもかわぐつ）、スニーカーは厳禁としておきたい。理由は　これも簡単である。　過去に靴紐が解けシフトチェンジの突起に紐が絡みつき制動不能となり転倒した例を幾度も知っているからである。コーナーの最中いきなりニュートラルに入れてしまい、本人は訳がわからず対向車線へ飛び出してしまった。　幸いにも対向車両が居なかったから良かったがこのような死亡事故例は、過去を丁寧に調査すれば数多く露見するはずである。従って紐靴（ひもぐつ）は「生き残るため」には厳禁と　ここではしておく。</p>
<p>グローブ　これもサイズが合うものをきちんと試着し購入することをお奨めする。握る･開くの作業が円滑に出来、厚手のもの選びたい。当然ながら素手で運転することは厳禁事項である。私の知り合いは近所だからと言い、素手で走り転倒。卸し金のアスファルトに指を立ててしまい生爪が数枚剥がれた。幸い命に別状はなかったが、若いおしゃれな女の子場合　爪は彼女らにとって大切なファッションである。後部座席に乗せるのであれば、それぐらい気づかいグローブをはめてあげたい。男の私には判らない感覚だが・・・ヘルメット然り、同乗者に怪我をさせ　その事故を引け目（心の痛み）として運転をする側が　オートバイ自体乗らなくなるケースは非常に多い。それを防ぐ為にも同乗者のケアも心掛けたいものである。</p>
<p>以上　生き残るための身支度は完了した。これら全て整っていても事故を起こすときは事故を起こす。しかし、身に着けているもので不安がない状態　にするのが心得と繋ぐ所作の根本である。不安要素をどれだけ本気で減らしていくかが肝であることを心に留めたい。</p>
<p>次に、実際に跨る前「今日はどうしても乗る気がしない・・・」「なんだか朝から不安である」「体調がどうも優れない・・・」と乗ること自体が「怖い」と思ったら　自らの感覚を信じ　その日は乗らないことが非常に重要である。「怖い」を認め　乗らない勇気も必要である。（本年　2月15日　当ブログ「恥」をご参照頂きたい）北欧のオートバイメーカーで新車購入時に　このような一文が説明書に添えられていると人づてに聞いたことがある。</p>
<p>「あなたの愉しいモーターサイクル・ライフがより長く続く為にも　ご気分が優れない場合はライディングをされることを控えてください。」</p>
<p>　しかしながら、何らかの理由で乗らざるを得ないケースも多々ある。配達業等　仕事で運転をされている方、楽しみにしていた仲間とのツーリングの日等々に漠然とした「不安」襲われることは　人間である故　必ずあるであろう。この場合、是非お奨めしたい行為（儀式）がある。</p>
<p>一連の服装全てとヘルメットを身につけ、エンジンをスタートさせる。オートバイに跨り、タンクの上で両手を合わし、落ち着くまで腹式呼吸を行う。両眼は瞑（つぶ）っても瞑（つぶ）らなくても良い。鼻から空気を吸い、腹下部（丹田）に空気を留め　ゆっくりと口から出していく。私の場合、3回か4回程で走り出してしまうが、個々で決められて宜しいかと思う。これも亡き　もう一人の父と慕う　大野氏より教わったことである。これを行うと確かに胸騒ぎは落ち着くし、例え走行中の際にも大きく役に立つ、何より自分の肩の力が抜けていることに気付くことであろう。</p>
<p>ご参考までに　更に私の場合、少々のアレンジを加えている。タンクの上で手を合わせ、腹式呼吸を行うまでは同じであるが最後の息を吐ききり落ち着いた後、このように独り呟く</p>
<p>「　何があっても恨みません。　全てをお任せ致します、宜しくお願い致します　」</p>
<p>ここまで真似をする必要はないであろう。ただ私自身の精神状態を正確に分析するのであれば、「事故がありませんように」「生きて帰ることが出来ますように」と強く願うと身体全体に余計な力が入り過ぎてしまうようであるし、大概の人の傾向もこのようになるのではないかと思う。　死にたくはないに固執し力が入りすぎ身体が動かなくなることは実は、逆に死を招くケースが潜む。このことも心の片隅に覚えて置く方が良いだろう。　話は逸れるように思えるかもしれないが新渡戸稲造　著　「武士道」の中で有名な一節で「武士道とは死ぬこととみつけたり」　という言葉がある。これは　切腹や特攻、死を恐れないこと　と残念ながら解釈され勝ちではあるが私の私訳としては　好んで死を選ぶことではなく、生きるために非常時（死　※本来死は至極当然のことであるが）を冷静に見つめることであると解釈をしている。今、死ぬことは避けたいし　決して選びたくない選択ではある。しかし　「避けたい、選びたくない」　と思うことは　漠然と恐れている訳ではなく既に自らが明確に「死」ではない選択を行っていることであり意識、無意識を越え「どうしたら死なずに済むか」考え始めた証明でもある。オートバイに乗る以上　「覚悟」　が必要であるがその｢覚悟｣とは　死に至る乗り物であることへの「覚悟」である。決して「死ぬ」覚悟そのものではないことを　どうか誤解しないで頂きたい。この私の独り言も　「何があっても恨みません」という言葉の意味と裏腹に自ら生き残るための行為（儀式）であると捉えて頂いて結構である。つまり「生きるための最善を尽くす、しかし万が一の場合は嫌ではあるが致し方ない」という前向きな諦観（あきらめ）が私の身体を自由にしてくれているようである。それが　即ち「死なないように最善を尽くす」ことにつながる。</p>
<p>では最後に　私は誰にまた何を対象に向かい　独り言を言っているのであろうか？故人である大野氏か、やはり故人であるご先祖様（祖父か祖母）か、仏か神かその地の精霊か、大自然・森羅万象か、明確な答えはないがそれら全てといっても間違いではないし、過言でもない。しかしながら、それは　それで良いのであろうと私は思っている。所詮、人間は天気を自由自在に自らの都合で変えることなど到底出来ない自然界の一生物に過ぎないのであるから物事を全て受け入れる準備を行えば、この身は常に中立（ニュートラル）の状態となり、おのずとして謙虚にならざるを得ない。この精神上中立状態の謙虚さは　危機やトラブルに対しての柔軟な対応となりこれもまた生き残るコツとなって行くであろう。</p>

  </div> 
 </content>
 <updated>2010-12-30T23:17:58+09:00</updated>
 <published>2010-12-30T23:17:58+09:00</published>
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 <title type="text">二輪　生存家伝書　　法規之巻　</title>
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   <name>shurei</name>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">二輪　生存家伝書　　法規之巻※以下　文面は　2007年5月22日に掲載したもので...</summary>
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   <p><strong>二輪　生存家伝書　　法規之巻</strong></p>
<p>※以下　文面は　2007年5月22日に掲載したものです。</p>
<p>　　どこを走るにも道路交通法規が必ず、我々を制約する。しかしながら逆にその制約が我々を助けてくれる。法規を遵守する人間でも死に至る場合と至らない場合がある。一方で法規を全く遵守しない人間でも死に至らない場合がある。一見、理不尽であるように思えるが　実は隠された流れ（ルール）がある。</p>
<p>ここでは、道路交通法規を遵守することが　即ち「生き残る方法」とはしない。例え罰金を取られ運転免許書を失うことになったとしても　死ぬ　ことよりは遥かに良いことであることを前提の上で話を進めることを　まずは了解して頂きたい。　また決して道路交通法規を推奨しない訳ではないことをこれもまた誤解無きようお願いしたい。</p>
<p>一、 ここに　その法規が存在する理由を知る</p>
<p>高速道路を走行中、100km/hの速度規制から急に80km/hになるところがある。そこには、高確率で覆面パトカーや高速機動隊のパトカーが隠れるように待機し速度違反の車やオートバイの取締りを強化している。大概の人間はこのように言う。</p>
<p>「罰金を取るために　あそこに　ねずみ捕りがある　」　と。</p>
<p>果たして罰金を取るために速度規制が急に下がっているのであろうか。いや、そうではない。速度が下がるには下がるなりの理由が必ず　その場所に存在している。見通しの悪いコーナーが続く、天候が変わりやすい、海に面している、長い登り坂の後、長いくだり坂へすぐ変わりスピードが乗りやすい、具体例を挙げるのであれば　名神高速道路の関が原IC付近が判りやすいであろう。あそこは、天候が変わり易く　登り降りのコーナーが続く。だからこそ　速度規制も80km/h　まで下がる。　また一般道であれば、住宅街、民家の多い区域、小学生が利用するスクールゾーンで速度規制が60km/hであるケースは極めて少ないのではないだろうか。大抵30km/h程度である。その法規が存在することは　「理由」が必ずある　つまり　何かしらの「注意事項」が必ずある　ということである。その「注意事項」に気付くことが「生き残る為に肝要である。」</p>
<p>注意事項が明確であれば、What（何）？　Why（どうして）？ではなくHow（どうやって）？という具体的な手段へと移行が可能である。それは　既に「生き残る為」の選択を自らが行っていること他ならない。先に話した　法規を遵守したとしても　その法規が存在する「理由」が見えなければ事故を起こす可能性は　ゼロにはまず成りえない。また　法規を無視しながらでも　事故を起こさない人間が世の中にはいるのは、この「理由」を理解している為であると私は確信する。そして、その「理由」を一つの情報と受け止め、自らのルールで対処していく人々である。</p>
<p>また余談ではあるが法規を無視し、「理由」も理解せず事故を起こさない人間も極一部存在するが、彼らは天に愛された天才と考え　彼らの存在をここでは除外しよう。　しかしながら、天や神は　自然天候と同じく　時に気まぐれである。その気まぐれにも愛される自信のある人間だけしか無法は許されないことを忘れてはいけない。「どうしたら天に愛される人間になれるのか？」を検証することは「どうしたら天才になれるのか？」を考えることと同様であり無意味である。</p>
<p>安全運転とは、法規を守ることではない。事故を起こさず、死なないことである。この生存家伝書では、そのように解釈していく。</p>
<p>二、 道路交通法規とは、目安である。</p>
<p>先に法規が存在する理由を見つけたとしよう次に　どのように　その理由を如何に問題なく対処していくかに尽きる。例えば、山道や民家付近では　追い越し禁止のオレンジラインが中央分離帯に書かれているケースが多い。なぜ　ここがオレンジラインなのか？　見通しが悪いから、付近に在住の人々が飛び出してくる可能性があるから、様々な理由が見えたとしよう。ここからである。民家付近であれば、飛び出してきた人間や民家に居つく猫などにに少しでも　出会いがしらの衝突にならないようあなたは　中央車線寄りに自らの走行車線を自然に移動していることに気付き驚くかもしれない。　「理由」を知った上での法規の遵守は　あなたの命を より守ることであろう。</p>
<p>ただし「何が何でもオレンジラインを割ってはいけない」と思う生真面目な方もいる。考えの偏りは逆に危険でもある。このオレンジライン、　対向車線から見てもオレンジラインであるが故対向を走る車が車線を割り　我々側の車線に飛び込んでくる可能性が極めて低い。即ち、見通しさえ確認できれば　実は安全に追い越しが可能である。これは機動力の高いオートバイでなければ、まず出来ない。また前方に右折で曲がる車も通常車線に比べれば遥かに少ないのでリスクが少なく追い越しが出来るポイントでもある。ただし　道路法規上違反ではあるので警察に止められた場合は　速やかに指示に従いたいものである。　</p>
<p>ここで気付いた方がいるかもしれないので文面化をしておく。道路標識、法規のほぼ全てが4輪の為に想定されていることを肝に銘じたい。</p>
<p>法規（標識）の内容を理解する。存在する理由を理解する。そして　それらは　有力な情報でありながら　目安であり、ただ守れば良いのではない。法規を遵守しきれる人間は　達人　である。私達は　まず死なないことを最優先として挙げ、次に事故を起こさないことと続き、三つ目に法規を守るという順序で良いと　ここでは記す。</p>
<p>何度も言うが、安全運転とは法規を守ることではない。瞬時に考え、その場に応じた正確な行動を起こすことである。</p>
<p>いずれにせよ、我が身を守るのも「法規」ではない。我が身を守るのも　また我が身である。</p>

  </div> 
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 <updated>2010-12-30T23:12:54+09:00</updated>
 <published>2010-12-30T23:12:54+09:00</published>
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 <title type="text">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）   後述</title>
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   <name>shurei</name>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">後述　　遅ればせながらの後述ではあるが、どうかご容認頂きたい。52話まで続いたこ...</summary>
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   <p><strong>後述</strong></p>
<p>　　遅ればせながらの後述ではあるが、どうかご容認頂きたい。</p>
<p>52話まで続いたこの文章は、事実を元にしたフィクションである。従って文章全てがノンフィクションではないことを前提としたい。　登場した人物はモデルになる方は当然ながら実在したが、何人かの人物を内包している。特定人物を非難しているという、ご指摘を受けたことがあったがあくまでも　この話はフィクション。それがノン・フィクションなのかどうかは　読んで頂いた後　「我こそは　この文面の文章のモデル」であると思える方　ご自身に委ねたい。ご本人のみぞ知るリアルな部分であるのか、ないのか、ご自身が違うと言えば違うので、まずはご了承頂きたい。</p>
<p>　ただ義父という人物が行ったこと、言った言葉、場面はノンフィクションと言って言いと思う。ただし私自身がどこまで客観的に書いたかまでは　実は自信がない。それは記憶を辿れば辿るほど主観性が強くなり、客観性に欠けている私自身がここにいることを全面的に肯定するからである。</p>
<p>　今回の文章が私の中で構想として挙がったのは　１９９６年　夏リア・サスペンションが完全に機能をしないボロボロのホンダのＶＴＲ２５０Ｆでバイク便のアルバイトをしていた頃だったので、もう１４年の年月が流れている。実際にノートに書き留め始めていったのが　翌年１９９７年。この頃は、まだ文中、義父として登場した大野正樹氏がご存命だったので（奥様には、この小説？を掲載することの了承は受けています。）　</p>
<p>「あのとき、あのような言葉で表現されていましたが・・・」　や「あの言葉の本質的な意味は何だったんでしょう？　」　と</p>
<p>呑気に書き留めた具体的な質問事項をご本人に聞くつもりだった。がしかし２００１年５月に大野氏は急遽　夭折された。ここから私は一心不乱にノートに書き留めた文面を、覚えたてのパソコンに文章を必死になって入力をしていったのであった。このときの想いは、氏へのレクイエムという言うべきか？使命感に掛かれたとでも言うべきなのか？我武者羅に記憶を強制的に思い出すことが私のするべきことだと思い込み。　また　何かに取り付かれたかのように言葉が振って来てただ、ただ記憶の羅列のようなものが出来つつあった。２００５年の頃、既に原文になるものは　出来上がっていたがところどころが抜け落ち、どうにもまとまらず漸く　このような形で文面になるであろうと思えたのは、２００７年冬ぐらい。それから、また私などが本当に書く必要などないのでは・・・と葛藤の日々が続き、とうとう　ここまで懸かってしまった。</p>
<p>　実際、現在　週刊誌で連載されている「湾岸ミッドナイト・Ｃ１ランナー」という漫画には心底感心し今日の今日まで読まないようにしていた経緯も正直に告白する。益々、私が活字にする必要性が感じられなくなってしまったからだ。コンビニエンス・ストアで一度立ち読みをしたとき私が書いてきたこと、またこれから書こうとすることをビジュアル面と台詞という活字の迫力で訴えている。これには到底　超えられない・・・と落胆したものだった。</p>
<p>　だが、ふと我に幾度も返った。この漫画の作者を超えるために私は書くのだろうか？大勢の誰かに評価されるために私は書いているのだろうか？また書籍にして売れたいと思って書いたのだろうか？</p>
<p>否。　　たったの一人でいい、２０歳前後　あの頃の私のような歳のオートバイに乗る青年が読んでくれれば・・・という２６歳だった私の熱い想いがどういうわけか忘れずにいて、それが願いとなっていたのである。たまたま、あの頃　義父と思える大野氏と私が出会ったように偶然、インターネット検索で一人の青年が読むかもしれない。その青年が私のように生き延びることが出来るかもしれない　　と。</p>
<p>やはりコンビニエンス・ストアの前で事故を起こしていた２０代に満たなそうな青年が右直事故に巻き込まれた光景を目の当たりにしたことが大きい。　そして文中の主人公のように憤りを自らに感じたからこそ書き終えることが出来たのかもしれない。</p>
<p>それでも１日に平均５００、多いときで１７００以上のアクセス数があったことを知り　非常に驚いていた。それが勇気と変り　とうとう完結まで行き着くことが出来た。ここで閲覧をしてくださった方々に心から感謝を申しあげたい。</p>
<p>本当に有難うございました。</p>
<p>　ちなみに一昨日、「湾岸ミッドナイト・Ｃ１ランナー」は１巻から４巻まで全て本屋で買い求め読み終えたが、面白いし読みやすいのでお薦めである。また「白線またぎ」という最高速のテクニックが掲載されていたがこれが私の文中　「龍の尾」「ドラゴンテール」だったかもしれないと再び感心してしまった。オートバイで白線の上を走り続けるにはグリップ上、無理があるが視線の消失点を踏まえればありえなくは無い。私の長々と続く文面よりは、やはり遥かに読み易く判りやすいと思えるので　複雑な心境でもあるが　こちらの漫画をお薦めした方がいいだろう。</p>
<p>　　私が文章を重ねた主眼は「記憶」である視覚も含めた、嗅覚。　触感と音　これらに連動し強制的に記憶が好む、好まずと係わらず身体の細胞レベルで甦る時がある。それが生き方（走り方）を変えてしまうことがあることを改めて自分自身が気づいてしまったことが　書き連ねたその理由、　これに尽きてしまうかもしれない。</p>
<p>　　また、自己に内在する刃（やいば）、これもまた一つのテーマとして取り組んできたつもりでもある。　「口舌（こうぜつ）の刃（やいば」という言葉があるように自己保身の為に攻撃の対象が常に他者に向かう人間ほど、交通事故が多いことに気づいてきたのが　ここ数年のことでもある。この攻撃的な刃（やいば）が他人に向かえば向かうほど人間関係も然りではあるが交通事故に出くわす可能性がオートバイ乗りには言えるのではないかと私は思っている。　一方、この刃が自身に向かうと不思議を交通事故及び自損事故の可能性が減るであろうというのが私の仮説である。</p>
<p>　つまり常にむき出しの刃（やいば）は、トラブルが多い。他者と交わる交通事故然り人間感のトラブルは他者へと向かう　内包された刃なのであると思う。　よく周りに些細なでも事故（トラブル）を起こす人間を見てみるといい。恐らく同感してくださることであろう。</p>
<p>よく交通事故を起こすものは、人間間のトラブルもよく引き起こす。</p>
<p>人の感情は揺らめく。揺らめくからこそ、せめてライディングをする際は己を律したいものであると生意気ながら実感してくるようになった。すると他人を大上段から振りかざすよう言葉を吐き掛ける人たちに対し疑いではなく、確信として</p>
<p>逆に　もし常に己に刃を常に向けていれば、その人間の心（精神）は死に崩壊に至るであろう。私は運よく？事故を起こさず済んでいるがその換わり、自己崩壊の寸前？まで導かれてしまった。</p>
<p>何事にもバランスが必要である。だが、私は　その面に関して今現在では後悔していないのが救いでもある。</p>
<p>武芸の達人は、鞘から刃をぬくことがない。</p>
<p>　武芸の話となると「士」　という文字を思い出す。江戸時代に階級分けされた　士農工商　の「士」であるので、自ずと武士のことを指すことと思える。しかし辞書で見ると「　シ・　さむらい　」と表示され必ずしも　士　が　そのまま武士だけのことを指しているわけではない。そして、サムライと武士が　同一とされていないのが面白いがさむらい　を調べると武士一般の総称となっている。更に転じて俗に（なかなか）の人物としている。サムライという言葉が　士　と必ずしも同一にされていない。</p>
<p>その後に　士　の意味として「りっぱな男子、独立した成人男子」が冒頭に並ぶ。二番目には、官位について祿（ろく）を受けているもの。</p>
<p>私は　この　士　という言葉が好きである。師　というと一種の客観的な権威を感じるが、　士　には寡黙に己が選んだ道（みち）を選んでいるという主観的な強烈な意志を感じる。</p>
<p>武士道、葉隠、五輪書、兵法家伝書　様々なサムライとして指南された書物がある。敢えて私は、漫画である白土三平　著　「カムイ伝」十二巻に掲載されている笹　一角という人物の台詞を引用したい。</p>
<p>「そも　武士とは何か？　勇、智、仁　の　品に欠けたるは武士にあらず。　すなわち地位の上下はもとより生まれの貴賎も　これにはいささかの関りなく。　それ刀は武士の魂とか申す。　すなわち剣と剣にて敵と対峙したる時の姿にて、　百姓が荒地を切り開き米を作るに命をかけるも　これ元は同じ。　ましてや人の上に立ちて国を治る者しかり　されど愚者にて人の上にあるは世を乱し悪をはびこらせ　天地自然の理を　破壊するは必定　これこそ真に天下の政道をゆがめる根本となるもの。」</p>
<p>サムライという言葉が独り歩きしているが血でも家でもなく、意識であることを強調しておきたい。私がどうして、なぜ漫画である「カムイ伝」を引用しているのか判って下さる方は判って下さるであろう。（最近、映画化された外伝ではない）サムライになれるのは、もはや日本人だけの特権ではない。ただし意識的な大いなる遺産として我々　日本人は担う必要があるだけである。それを意識出来るか否や　それこそ現代社会に生きる我々にかかる。次世代の担い手は、どの国、どの民族、そして階級や性別に拘る必要は　ないと思うのだ。そしてオートバイは、常に「非常時の心得」を現代人の我々にも意識させてくれるが故オートバイは鉄馬としてサムライ　へと導く意識的育成として意義があることを信じたい。警鐘として重要な道具であると・・・</p>
<p>従って、全てのオートバイ乗りが　そのままサムライになるわけでは決してない。またオートバイ（鉄馬）に乗らずともサムライの心を持つ方々は多い。</p>
<p>では、その違いとは何か？　分岐点はどこなのか？　私なりの解釈をすると　核となる部分は　生　と　死　これを直視することを意識するか　しないか。意識するということは、そのものを見つめることである。見つめることは、その人物の生き方の方向を決め、見続けることが　道（みち）　を歩むとことなる。その本質こそが　全ての　道（どう）　なのであろう。</p>
<p>十数年前、義父の主催するクラブで一泊のツーリングに行ったことがあった。そのとき、年配者である参加した方々にお聞きしたことがある。</p>
<p>下着を真新しいもので参加する。自分の部屋を掃除し整理してから参加する。</p>
<p>私は今も尚、影響を受けながら　これらの行為を行っていない。まだまだ誰にでも平等に訪れる「死」という絶対的な将来に覚悟が持てていない証明でもある。ただ、文中にも記したが　複式呼吸を行いオートバイのタンクの上で両手を合わす。そして「何があっても恨みません。全てをお任せ致します。」という儀式は今も尚、忘れず行っている。</p>
<p>この稚拙文章の命題の中には　忘却　という人間の性（さが）が会い連れ添う。意識することを　日々　忘れないことこれは　シンプルでありながら極めて難しい。全ての　道（どう）　の達人が　その道（どう）を極めることなど　まず不可能と謙遜を含め己を疑うが、達人の域まで　とても追いつかないと哀しいながらも自己を理解している人間にとって　諦めず　ただ見つめ続けることだけが道（どう）へと繋がる唯一の方法なのである。</p>
<p>　文中で登場した　禅寺のご住職　この方にも実在モデルの方がいらっしゃるが御仁は「　走行禅　」という言葉を広めていくことは意味があるかもしれない　と仰られていた。走行中　玲瓏の状態になること、連なる山々を見つめ　私が感じたことをお伝えした際静に笑い、ガンを患いながらも丸一日　お付き合いして下さったことは私にとっての偉大なる心の宝物である。</p>
<p>もし、万が一　そして　そのときに自分はどうするのかそのような非常時に置かれた己を決意することから始まる。</p>
<p>「武士道とは、死ぬことと見つけたり　」</p>
<p>と「葉隠」に有名な文言があるが、死ぬことを薦めているわけでは決してない。まさしくこれは、死　そのものを真剣に見れば　生　が見えてくる。生　は　生きる。　生きる　とは　活きる　こと。</p>
<p>義父として仰いだ大野氏は、</p>
<p>「つまらないことで死ぬな　」そして「オートバイでは死んで欲しくはない」</p>
<p>この二つではあるが　もっと要約するのであれば</p>
<p>「　活きろ　」　と言いたかったのではないだろうかと私なりに確信している。</p>
<p>オートバイは、楽しいスポーツである一面は、今の私は否定しない。単純にライディングは楽しい。　それは素晴らしく気持ちの良いことである。しかしながら、生命に対して　諸刃の刃であることはメーカーや大部分のチューニング・ショップや小売店、そして大多数の乗り手まで曖昧にしようと努力する。</p>
<p>「怖い？」　「慣れるまではね、仕方ないさ。」「楽しい？」「爽快で嫌なことを忘れられるし、自由な気持ちになれる。」</p>
<p>だが、その慣れるまでの間　何もわからず降りていく（辞める）ものたちの多さと慣れる前に事故を起こし乗れなくなってしまうものは、確実にいる。遠い私の親戚の女の子は、時速３０ｋｍ／ｈで国道を走っている中　突然　左折する乗用車にはねられ１５年以上、意識が戻らず植物人間の状態で今尚　息だけを続けている。また、漸く慣れた始めた頃　死んで行った同年代のものたち。ベテランと呼ばれながらも、あっけなく死んでしまったライダーを見たのは一人や二人ではない。　</p>
<p>オートバイは、死に至る可能性が確実に存在する乗り物である。そして　死　と向き合う乗り物だからこそ　生　が活きる死　を見つめながらも尚、乗り続け考えることが　サムライの意識であることを日本国内のメーカーが共同して推進していけば、海外のライダーでも理解をするであろう。</p>
<p>ただし、不用意に　「死」　煽ることは無論ながら慎みたいことには同調する。初めて乗る人間が居なくなってしまう危惧を持たざるを得ないことぐらい私にも理解できるのだから・・・だが、一番　大切なものはなにか</p>
<p>　「オートバイで死なないこと」</p>
<p>死なないためには、　「死」　を　冷静に今一度　見つめる必要があること。</p>
<p>ここをまず認めなければ　二輪業界の未来はますます厳しい。トランスポーターという意味でのオートバイという存在はエコロージーも含め意義はあるかもしれない。電動オートバイは既にメーカーは発表している経緯からみれば尚更である。だが、内燃機を主体とした従来のオートバイ、私のツールであるオートバイは年々、一部の趣味として縮小していく烏合の衆となるであろう。</p>
<p>　　最後に　「シ」　という　音（おん）に　拘りたい。</p>
<p>「死」　（を丁寧に）「視」　（見続ければ）「思」　（思うことが）「始」　（始まり）「私」　（私心は自然と消え）「至」　（それに至ること）「志」　（と呼ぶ心となる）</p>
<p>そのとき、我々は</p>
<p>「士」（サムライになるだろう）</p>
<p>　所詮、人間は　大自然の雨、風　また連動する理（ことわり）に勝ることはない。驕り高ぶった己を観念ではなく身体で思い知らされるオートバイはやはり最上のツールと言っていいだろう。老若男女問わず、人種や国境を問わず衿を正した心の「士」としての『道（どう）』を皆で「志」（こころざし）、それに自身と歳若き青年が共に「至」（いたる）ことを　いつまでも祈り、願い続けることを、忘れてはいないか？と自身に疑いを掛けることを誓いとし後述の最期を締めくくりたい。</p>
<p>イエス・キリストから洗礼を受けた大野正樹氏のご冥福を心より願って・・・２０年程前　あなたの洗礼を受けた一人の青年だった私より</p>
<p>２０１０年１２月２４日　　　佐藤　秀玲</p>
<p>※　過去、当ブログ　（２００７年）に掲載した二輪　生存家伝書　　法規之巻 、所作之巻　、心得之巻 をこれを機に　また再掲載を後日致します。ご意見、ご要望、また反論　自由活発にコメント頂ければ幸いです。</p>

  </div> 
 </content>
 <updated>2010-12-24T00:01:27+09:00</updated>
 <published>2010-12-24T00:01:27+09:00</published>
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 <title type="text">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）完</title>
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   <name>shurei</name>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）完[　三十四　]　２００１年　皐月　翌...</summary>
 <content type="xhtml" xml:lang="ja">
  <div xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml">
   <p><strong>アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）完</strong></p>
<p>[　三十四　]　２００１年　皐月　翌日　　</p>
<p>　　遠近感が掴めない。</p>
<p>数十メートル先か？　数百メートル先か？　ひょっとすると数キロ先かもしれない。横目で　ＺＺＲ１１００Ｃ　が炎上しているのが見える。　今の私の状態は、仰向けなのだろう空しか観えない。意識はまだ殆ど回復していないのであろう。幾分か回復しているのであれば、骨が折れていようが通常立ち上がろうとするものだ。運良く車両の通らないのは　路肩に投げ出されたのであろう・・・しかし視界に車のタイヤらしきものは映ってこない。</p>
<p>時間がゆっくりと流れている。</p>
<p>私は、アスファルトに横たわっている。前日に降った雨が水分として　まだ残り蒸発をしているからなのかこの人工物を暖かく、そして懐かしい匂いを感じていた。</p>
<p>徐々に浸透していく路面温度、身体全体を包み込んでいく錯覚に陥る。全身打撲という痛みが逆にエンドルフィンを放出しているのか不思議な幸福感を感じる。走馬灯なんて瞬間的な事故などの渦中に見るものなんて限らないと改めてぼんやりと思った。</p>
<p>　　今、この時　路面を包む甘い匂いがモンスターとなり、　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　記憶回路を刺激し創めた。</p>
<p>過去に見た「神のような」存在を感じた　木々の生い茂る緑の洪水の山々・・・あの一瞬で全てを理解出来た様な膨大な情報量の脳内アクセス（浸入）が　また始まったのである。</p>
<p>　現実に見えているわけではない。走馬灯というより幻覚。　妄想や白昼夢に近い。額中央から映像が流れてくる。</p>
<p>　　今、私が横たわっている道路を作っている人達が見えている。灰色の作業服にヘルメット、安全靴を履き　汗を流している。作業員は一人から二人、三人と人数を増やしていき、数十名ほどが何やら声を掛けながら作業を従事している。数名は笑い、数名は怒鳴っている。十代ぐらいの若い男から初老の男まで入り混じり、皆　懸命に汗まみれみなりこの道路を作っている。</p>
<p>　　日が暮れ、各自が家や飯場へ帰る。家族の居るもの、居ないもの。悩みを抱え話すもの、話さないもの。話すことが出来ないもの。話す相手がいないもの。豪快に大飯を食らうもの。ビールだけを啜り、ろくに食事を取らないもの。変らぬ日常に自らを慰めもせず、些細な幸せを風呂に入りながらしみじみ感じているもの。競馬、競輪、パチンコに入れ込み、負けが込んで深刻に落ち込んでいるもの。独学で建設学の勉強をしているもの。貯めた賃金で独立の夢を掴もうとしているもの。借金を数件もし首が回らず、自殺を考えているもの。周囲にガンであることを隠し死後の整理を淡々と進めているもの。行きつけのスナックでママとカラオケを楽しく歌い酒に酔うもの。生まれてくる子供の名前を何にするか、幸せを願うため字画を懸命に買った本で調べているもの。二度目の流産で肩を寄せ合い泣いている夫婦。ファミリーレストランで妻を怒鳴り、幼子の泣声で初めて我にかえるもの。離れ離れに住んでいる子供の写真を眺めているもの。父母に手紙を書いているもの。また届いた手紙を読み泣いているもの。</p>
<p>　細胞の一つ一つが破裂するように彼らの生活映像風景が一瞬で駆け巡る。私がしてきた経験ではない。観てきた体験でもない。しかしこの道路を作るにあたり本当に従事した人々なのかどうかも定かではないのだが朦朧とした頭で私は、なぜか愛おしさを感じた・・・</p>
<p>この温かみは、彼らの体温・・・　そう確信することにした。</p>
<p>　生活の上で創造された道路は、決してアーティストや大衆からは評価のされない芸術作品だ。この不必要とも思える多くの大地を覆うアスファルトは、今後益々　人間が行った愚かな過ちとして環境保護を訴える知識人から多くの一般人まで罵られることであろう。年度末に行われる一見、不必要であるかのように思える道路工事は税金の無駄と声高々に叫ばれ、国政が野党に糾弾される。だが今まで変ることがなかった。</p>
<p>変わる兆しが診えたとしても私たちの知らないところで脈々と水面下で行われることであろう。　もし、変るとすれば、このアスファルトに代わる何かの素材に将来　移行されることだけのことだ。環境破壊と談合による創造。悪名高き代名詞、コンクリートと　このアスファルト。無機質であり且つ巨大で長い延々と続く道路は今後の未来でさえ否定材料でしかない。恐らく　それは間違いではない。</p>
<p>　　しかし、この従事により愛する女性（ひと）に結婚指輪を漸く購入した男がいる。愛する子供にランドセルを買ってあげた親がいる。肉体疲労で疲れ果てても、明かりのついた愛する住まいを購入した父親がいる。子供が成人式を迎え、遠くも近くも感じる２０年以上という年月を静かに喜んでいる夫婦がいる。子供が結婚をし、孫が生まれ、子とは違う感覚に驚きながら慈しむ夫婦がいる。そこには、鉄やアルミの溶接技術一つ、または不器用なまでもコンクリートやアスファルトを固めて家計を支えてきた不器用に老いた男と辛苦を共にした老いた妻がいる。彼女たちは哀しかったことなど考えもせず、老いた夫に静かな感謝をし、わが身を幸福という概念に極めて自然に落ち着かせる。当たり前過ぎて見失ってしまう莫大な現実と真実が道路という名の真っ白いキャンパスを創った人々を浮かび上がらせ一つの絵画とする。　その絵画は決してデッサンや構図が優れている訳ではないが大切な者への労働の汗という名の色、極めて純度の高い魂に色彩は帯びてゆく</p>
<p>　私は、過去に起きた緑溢れる山々と森との対話と同じ言葉を呟いた。</p>
<p>　「愛している・・・」</p>
<p>　愛とは、相手の未来を想う心。相手を憂う魂が永続して行われる片思い。声にならず相手に届かぬ告白は何の昇華にも繋がらない。しかし、深い自己満足を誘（いざな）う　到達感、達成感のそれと近い。それは天には決して届こうとはしない。だが　大地に同化しようとすれば深い安堵と浄化の瞬間を得る。ベクトルがまるで逆だったのである。愛は天へと向かわず、大地へと向かうもの。憧れは愛でない。　また愛は理念でもない。日常生活の中、肌で感じるものではないだろうか？人間は　大地に両足で着いて日常を過ごしている。それであれば、神も実は天空へ向かう対象なのではなく、地面に向かうものだったのではないか？不安定なオートバイは　2つの車輪で大地に接しているからこそ感覚の増幅作用が働くのでなないだろうか・・・</p>
<p>膨大な量の情報は、また一つの確信へと導いた。</p>
<p>「いいかい　リュウイチさん　それが喩え　間違いであるにしても　　一瞬で全てを理解　出来た到達を感じるようであれば　　禅の用語で　大吾（だいご）のそれと変らない。　大吾　　悟りのことだよ。　知りたいと思えば、知りたいものを　ただ観ていればいい。　観ていれば必ず、判るときが来る。　　観ていなければ判ることなど　まず起こらない。　観ることも修行の一つ。　　それならば　ここに来て座禅を組む必要もない。　はは　」</p>
<p>太子町に住む禅寺のご住職の笑い声が聞こえる。</p>
<p>人は観る方向に進んでいく・・・</p>
<p>「オートバイも同じであり、実は車も同じことに君はやがて気づくだろう。　でも、僕は　２輪という不安定さを持つオートバイの方が人間　　そのものを抽象しやすいと思う。　　走るものは全て観る方向に進む。　　日常を営む行為と同一と言って過言ではない。　つまり人生は走ることなんだ。意識しなければ、思わない。　　思わなければ、観ない。　観なければ、その方向には進めない。　判った振りをして観もしないことが如何に人生において損失であるか　誰も言いはしないのさ。　白けて、物事を斜めに見る人間と付き合うほど、僕は暇じゃない。　自分のモチベーションというパワーを失うことにもなりかねない。</p>
<p>　思えば、観る。　観れば　必ずその方向に進める。　目的にそれだけ近づける。　目標に到達するには、観続けることなんだ。　想い起こしてごらん　Ｒ（カーブ）のきついコーナーを　オーバースピードで突入した場合　ガードレールを見続けるものは　　そのままガードレールにぶつかってしまうが　コーナーの出口を見続けるものは、不思議と事故を起こさないものだよ。」</p>
<p>　これは、私の声が誰かに向けて話しかけているのか？義父の声が私に向けて語りかけているのか？　そのどちらでもなく、どちらでもある。今、私は義父であり、義父は私でもある。義父が私の中で生命を帯び始めてくれた。</p>
<p>同化・・・アスファルトに同化したら道路製造に携わる多数の人々の営みがアクセスしてきた。そこから芽生えた理解は昇華ではなく、静かな純度を高める浄化作業だった。大地に意識し触れていれば、フィルタリング（濾過）をしつつ浄化を高める　これもまた愛の一つ。私の未来を想い発達進化させようとしてくれている。その浄化は、体内で神々しさを増し到達感を得ている。</p>
<p>忘れてしまっていること忘れてしまってもいいこと忘れてしまうべきこと忘れたことさえ思い出せないことそして　忘れては決していけないことを時折　バックミラーで確認するように今を見つめなおし、自身を疑う。しかしながらアクセルは開けたままで道を走り続けている。そう、それが生きているということなのだから。</p>
<p>全てを思い出すことはないが、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚から連動する記憶の数々これらは、皆　材料であり　その材料の象徴こそ「道標」に過ぎなかった。また　改めて私自身そのものが「道標」だったことに気づく。記憶・・・というそのものより重要なことは　今、この時点で観る方向。何を観たいのか？　何を観続けるのか？そして、判りたい何か。知りたかった何か。判らないなりにも観続けていたから、たどり着いた。おのずと何を忘れ、何を確実に留めるのかが理解できた。それは、極めて普遍的な答えである「未来」という不確かな時間。不安定な「未来」へと続く、「今」を取り巻くこの瞬間に　私が一体何を見つめるのか？何を観続けていこうとするのか？　この「観る」という行為を誰かに伝えなくては・・・それが「道標」である役目の全てであると言っても過言ではないだろう。</p>
<p><span style="color:#c11e00;">―　うんにや　ずいぶん　立派だぢやい　　けふは　ほんとに立派だぢやい　―</span></p>
<p>「もう、いい　　　これでいいじゃないか・・・充分だ　」　</p>
<p>透き通る空気、軽やかな金属音に聴こえてしまう静かな耳鳴り。不思議とまだ身体は痛まない。　しかし一方　この異常な状態が正常にすら感じる。</p>
<p><span style="color:#bc2300;">―　耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい　―</span></p>
<p>　私も　兜率天へ　梵天や帝釈天がいるあの場所へ行けるのか？</p>
<p>いや・・・行けるはずはない。行けるわけがない。　私は、あまりに反社会的な行為を繰り返す無法者だったから・・・</p>
<p>無間地獄へ陥ること間違いない。　</p>
<p>それは致し方ないと覚悟もしてきた。</p>
<p>ただ願わくは、その無間地獄に宗教的大罪と言われる自殺で死んでもし永遠とどこかに佇んでいるユミがいるならば会わせて欲しい。そして共に居させて欲しい。</p>
<p>　忘れると決心し、記憶の奥底へ強制連行された彼女の記憶は　肉体や血を越え細胞まで拡散しながらも　どうやら沈黙だけを続けていたのだった。我が身に現実として降りかかった「死」の予感は　強烈な彼女の「死」という記憶が染み渡り、浸透していく。その浸透も悪くない気分だ。</p>
<p>　自殺の罪がどこまで大罪か私は知らない。しかし大罪であればあるほど、今の私には好都合だ。　丁度いい・・・超高速で走ること　即ち周囲全て　私を「自殺行為」と呼ぶはずだ。ただ自ら望んで死に至ったか？　望まなくとも結果的に同様な結末に至ったか極めて些細な違いにしか他者には思わぬことであろう。　それでいい・・・</p>
<p>私は彼女と共に居ることを望む。　彼女といる無間地獄は　地獄であって地獄ではない。私の望んだ輝かしい光の世界にだって思えるであろう。そして彼女に謝りたい。気づかず無知でいた自分を・・・</p>
<p>　その昔、眠りについたその後、悪夢か　また何かの拍子に目覚めても、隣に彼女がいる事実だけで再び安心し朝まで眠れたあの頃。たとえ　その場所が真の闇に包まれていたとしても朝が来るまで二人で眠り続けよう・・・あの頃のように。無限に朝が来ないのならば、無限に共に眠り続ければいいだけの話なのだ。共に眠れていてさえ居れば、そこは安堵と安らぎの場所である。他人が　そこは地獄なのだよ　と忠告したしてもその場所を神が地獄と決定づけようとも私には天と等しいだろう。</p>
<p>畏れながらも私は　神に逆らおう。</p>
<p>　身体は一切　動けないでいる・・・　なんだか辺りに、あの懐かしいエタニティーの香りまでしてきたから「これが、オレの終わりか・・・」とぼんやりと思い相変わらず朦朧とした頭で漠然と涅槃へ向かう自覚をした。</p>
<p>　　ユミ・・・おまえは　そこにいるのか？　　まだ、オレには見えないだけなのか？　　連れて行ってくれ・・・おまえのいる場所に。</p>
<p>　　そのとき幻聴が唐突に始まった。あれは、最高速度域で流れ出す　聞きなれたいつものピアノ。二つ続く同じ音（♪）。龍の尾、ドラゴン・テールが出現する前に必ず聴こえ出す予兆の調べ。しかし、いつも　ここで終わる。</p>
<p>もう一度、同じ音が二度　続く。眼を瞑り、幻聴の続きに集中させてみた。微かに次の音が聴こえるようだが　はっきりとしない。</p>
<p>　また、二度続くピアノの音。さっきよりは聴こえる、続いて　３度目で　音階とリズムが変った。これは、聴いたことがある。　どこかで・・・あれは、いつの日だったか？　場所は？　音がフェードアウトしていく・・・無理か</p>
<p>　また・・・５つの音符の後に更に続く音色が微かながら聴こえ始めたときはっきりとした完全なピアノの楽曲へと変った。</p>
<p>変った？ただ明確に思い出しただけのこと。</p>
<p>これは　義父と共に聴いた[w]グレン・グールド[/w]。バッハのゴルトベルグ変奏曲・アリア、１小節最初の音。（[w]Ｇｏｌｄｂｅｒｇ　Ｖａｒｉａｔｉｏｎ[/w]、ＢＷＶ９８８）　</p>
<p>　いや、義父と共に聴いたのは、キース・ジャレットがチェンバロで弾いたバッハだったかもしれない。里山の家にある掘り炬燵での情景が眼に浮かぶ。</p>
<p>しかしながら今、頭に流れているのは、紛れようもなくグレン・グールドが弾くピアノのバッハだ。</p>
<p>　　数台の車に乗っていた人達　数名が私の処へと駆け寄ってくれている。眼を瞑り、グレン・グールドの音階を追いかけて微動だにしない私は死体にしか見えないだろう。足音が大きくなってきて、その足音が止まった。恐らく私を覗き込んでいるはずだ。一人の男性の声が義父の声と重なった。</p>
<p>　「君　生き続けたいのかい？　」　（　君　生きているか　？　）</p>
<p>私は、ゆっくりと頷いた（らしい）　。</p>
<p>「漸く、身体で気づいたんだね　」　　　（　生きているぞ　！　）「良かったね・・僕もうれしいよ　」　　（　生きているぞ　！　）</p>
<p>救出に来てくれた人達は大声で怒鳴っている。</p>
<p>「君は　この曲　今でも好きかな？　」（　君、意識は　しっかりしているか？　）</p>
<p>強く縦にふった。　歓声が聞こえてくる。義父と私の二人がバッハが好きだと、どうして皆が喜ぶのだと途絶えがちな意識で意外に思った。</p>
<p>ー　僕も　バッハの楽曲は　道だと思う・・・　ー</p>
<p>　私は助かるようだ。どうやらユミに　もう一つ謝らなければならなくなる。会えるのは、まだ先になりそうだよそして何より今　私自身がその場所へ行くことを拒んでいるようだ。折角、おまえが幻のような匂いで導いてくれたのかもしれないがすまない。</p>
<p>私にも　誰かに何にかを伝える義務があるのかもしれない・・・</p>
<p>ストーリーのある工業製品は美しい。　アスファルトにも実は地味で純度の高いストーリーが隠されていたのを私は気づくことがなかった。　彼らの「生活」という名の　ブランド・ストーリーだ。</p>
<p>気づくには　ツールがやはり必要なのであろう・・・</p>
<p>バッハは道を照らしてくれていたグレン・グールドの演奏で時折　私を誘（いざな）う。</p>
<p>　</p>
<p>「　僕に　とって　　オートバイは　ツール　なんだよ　　　」</p>
<p>ええ・・・私も　まだ生きるのだ。　そして活きて生きたい　と身体で感じた。　</p>
<p><span style="color:#ea1d00;">―　あなたの方からみたら　　ずいぶんさんさんたるけしきでせうが　　わたくしから見えるのは　　　やっぱりきれいな青ぞらと　　すきとほった風ばかりです。　―　</span>　　</p>
<p>　　<span style="color:#d61400;">宮沢賢治</span>「疾中」　眼にて云う　より</p>
<p>　遠くで緊急車両のサイレンが鳴っている。木々が萌え盛る緑の中無機質であるはずのアスファルトが　かすかに囁いた。</p>
<p>「　私も生きている　」　　と</p>
<p>嘘でもいい・・・その言葉は、私にとって　神（というサイクルのよう名）の言葉にも等しかった。</p>
<p>ならば、私も生きていける</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>　完</strong></p>

  </div> 
 </content>
 <updated>2010-12-12T21:34:35+09:00</updated>
 <published>2010-12-12T21:34:35+09:00</published>
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 <title type="text">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）51</title>
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   <name>shurei</name>
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 <category term="鉄馬" label="鉄馬" scheme="http://www.oimotomeru.com/index.php?mode=category&amp;aim=motorcycle" xml:lang="ja" />
 <summary type="text" xml:lang="ja">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）51[　三十三　]　２００１年　皐月　...</summary>
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  <div xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml">
   <p><strong>アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）51</strong></p>
<p>[　三十三　]　２００１年　皐月　翌日　１３：３０</p>
<p>　　</p>
<p>　　このまま、里山へ行く道中の　あの場所まで走ろうと思った。</p>
<p>国立・府中ＩＣから中央高速に乗れば直ぐなのだが、私は相模湖ＩＣまで国道２０号線をゆっくりと走ることを選んだ。</p>
<p>今から、８年前　神のような存在を感じた　この湖畔ルートを義父の告別式が終わった後、オートバイで走る。とても儀式的であり、襟を正すような気持ちでいるのだと思う。</p>
<p>あの時も、また今も思う。傍からは、気が狂っているような嘘のような事柄だとしてもあれは、私にとって純度の高い事実なのである。</p>
<p>　純度の高い何かとは　遥か彼方へと続くように見える浄化という到達であり、天空へ向かう上方向への立体的な導きではないのでは　と思う。飽くまでも極めて平面的、地面を移動する、停止する、ただそれだけの行為が実は、自らの純度をひたすら高める。私も含め、人々は上方へと移動したがる。天国と地獄というように、地には這い蹲るイメージが伴っているが果たして本当に天国は上空にあるのであろうか？</p>
<p>私は、共に　この場所にあるのではないか　と思う。</p>
<p>　オートバイは、浄化の入り口まで連れて行ってくれる極めて有効的なツールではあるが気づく、気づかないは、本人次第。この場所には、無いと思えば　それはない。この場所に、あると思えば　すぐそこにある、それが天国であり、地獄であり、あの世であり、この世でもある。それを気づこうとしなければ、気づくこともない。　ただそれだけの話なのである。</p>
<p>　極めてシンプルではあるが、人はシンプル（地味）であることを時に些細なことと思い込み、記憶から抹消してしまう。</p>
<p>あの超高速の先にある光の更に先は、地球自転への入り口なのかもしれない。あの世とこの世の象徴とイメージで捉えるならば強ち間違ってもいないであろう。平面である大地を走ることを自覚し、時折　止まり自己の確認を行うことは　実は全ての生命の息吹を感じること示唆している。</p>
<p>そして　今　ここに生きていることをある意味　自己肯定という大切な作業を身体で確認することなのであろう。</p>
<p>死ぬためにオートバイが在るわけでは　決してない。オートバイに乗れば　歓喜の一瞬は　必ず君に訪れる。でも　好きでオートバイに乗るならば　オートバイで死んではいけない。では　死なない方法とは　何だろう・・・その方法を考えること</p>
<p>そのものが答えなのだよ・・・</p>
<p>義父が頭の中で答えた気がした。</p>
<p>　</p>
<p>　死は誰しも必ず訪れるが　今、ここに生きている。その肉体も　また大地と繋がり一体化を始める。この感覚へと誘（いざな）うツールとしてオートバイは私にも必要不可欠だった。生命力を育てる、死への非常時の意識が　ここにあった。</p>
<p>　　突然　一つの嗅覚が私に何かを思い出させた。これは、木々の香り。樹木の新緑が放出させる匂い。</p>
<p>八王子を抜け、大垂水に入る頃　それはフル・フェイスタイプヘルメットの中まで浸透してきた。</p>
<p>　　音の記憶、葬儀で流れていたＧ線上のアリアは　あのピアノの音・・・龍の尾を見つめる時に流れる音に近い。確実に同じ音、楽曲という確信はまるでないが　その「甦る」という嗅覚との浸透が脳内をシンクロしてくる。これは、魂の純度を高めるためのフィルタリングを行うために感情から生まれてくる。そう・・・思い込み　であるが、それでいい。</p>
<p>湖畔道路を、逆の経由で走ってみたが今回は　あの目くるめく眩い現象は起こらなかった。</p>
<p>残念でもあったが、僅かばかりの満足は感じられた。</p>
<p>進化している自分と捕らえることが出来た自分に対してである。</p>
<p>相変わらず視界左側には、緑の集合体が私を黙って見つめている。</p>
<p>　走りながらも私は突如、確信した。</p>
<p>身の回りに存在するもの全てが自分に向けられている刃でありこの刃空圏に存在する刃先を一つ、一つ丁寧に確認作業を行わねばならないと私は思っている　と言ってきた。そして　その確認作業は心を動かさず、速やかでならなければ生き残ることが出来るライディングは難しいと経験上思う。</p>
<p>ここに私の脳漿に一つの言葉が振ってきたのだった。</p>
<p>「刃（やいば）とは　自分自身のこと」</p>
<p>私も人を傷つける。無意識にも、態度や状況　そして些細な言葉一つでも（心に）傷を負わせることが出来る。このライディングは　他人を巻き込む大きな事故に成り得る。死傷事故へと導き、見知らぬ人の人生をも変えてしまうことが出来るほどの重大な武器なのだ。</p>
<p>刃（やいば）とは、私の意志から始まる行動であり物体的であれ、精神的意識なものであれ突起しているもの全て　それに当たる。私　そのものが刃（やいば）である。あなた　そのものも刃（やいば）である。</p>
<p>路上の車、オートバイ、歩行者、ガードレール、電柱、落下物。無意識にしても恥辱的な言葉を吐くのも　これもまた刃なのである。口舌の刃とは、よくも例えたものである。</p>
<p>　<span style="color:#d61a00;">すべてあるがごとくにあり　かヾやくごとくにかがやくもの　おまえの武器やあらゆるものは　おまえにくらくおそろしく　まことはたのしくあかるいのだ</span></p>
<p>                 [w]宮澤　賢治　[/w]　　「青森挽歌」</p>
<p>義父は自らを錆付かせない為のツールであるとオートバイのことを言っていた。つまり自分は、刃（やいば）であると暗に表現してくれていた。また、私自身　オートバイに乗っているとき自らを無色透明な炎であるとイメージしてきた。どちらの本質も実は非常に近かったのだが、私には、今の今まで気づくことはなかった。心の眼が開いていなかったのだ。</p>
<p>では　「心眼」とは何であろう？やはり今でも「本当」「本物」とは何であろう？　と悩むことすらある。そんなことばかり時折考える進歩のない自分自身には、哀れみの眼さえ向けたくはなるがこんなことに疑問を抱く　今の自分が好きでもある。　哀れながらも愛しい自己肯定。それは、やはりマスターベーションの自己満足に近いのであろうがそれでいい。　</p>
<p>今、理解できた気になれたこと。　それでいいのであろう。</p>
<p>「本当」や「本物」の核心に触れなくとも、触れようとする心そのもの自体にゼロから１という数字に向かっている。私は既に「無」ではない。足掻きながらもゼロではない。　</p>
<p>私はこれでいい。</p>
<p>私は　無宗教でいい。　私は　無宗派でいい。無神論者なのではないのであるからこの身は、本当の意味でフリーでいられる幸せを感じる。</p>
<p>　その幸福感とは、例えるのであれば児童文学で　オスカー・ワイルドが書いた「幸福の王子」という作品があったが、文末にある　宝石に飾られた過去の輝きもなくみすぼらしくなってしまった　ただの朽ちた銅像をワイルドは　「それでも王子は、幸せでした。」　という静かでありながらも確信に満ちた言葉に近い。</p>
<p>私は　純度の高い想いだけに触れて行きたい・・・大多数、周囲の人間たちの言葉だけに右往左往されるような男にはなるたくはないと願い、些細ながらも実行したいのだ。過去は、瞬時　確認する程度でいい。</p>
<p><span style="color:#000089;">「走馬灯を観るなんて、　現状のトラブルから諦めたものしか　　観ることが出来ない特権なのだが・・・僕は一度も見ていない。　過去の全てを一瞬で観られるなんて羨ましいと思わないかな？」</span></p>
<p>相模湖ＩＣから中央高速道路に乗り　私の速度、２００ｋｍ／ｈ巡航で順調に双葉サービスエリア付近を通過した頃だった。</p>
<p>ー　　君　気をつけなさい　　ー</p>
<p>頭の中で義父の顔が浮かび、冷静な声が聞こえた（気がした）突如。</p>
<p>ガツッ　</p>
<p>大きな且つ冷徹な衝撃が車体を走り、瞬間的に原因追求事項が脳裏をかすめた。数秒もしないうち赤い炎が車体前方から突然、私に向かって来た。フロントブレーキ→ロック→違う　→ブレーキ・キャリパー、ローターではない。ホイールに異物が絡んだ→　違う、　熱　焔　→　？クラッチを切るほうが良いのか、悪いのか　→　？ほんの幾秒間　様々なことを想定したが理解が出来ない。その時メーター機器が視界全面に入った。続いて私の乗るオートバイのタンクが頭上を廻り捻った身体の眼に流れる路面が近づいたと思った矢先に一瞬　青空が見えた・・・気がした。定かではないのだ。</p>
<p>そして三度目の後頭部へと思われる大きな衝撃で私は気を失った。</p>
<p>三度目の衝撃の直前</p>
<p>−　コンロッドが突き抜けたか・・・　−</p>
<p>原因を特定した。少し笑ったと思う。そんな記憶があるが夢だったかもしれない。でも、これだけは確かだ。走馬灯は、やはり観ることはなく。即座に、私は怒鳴っていた。</p>
<p>　「３番（コンロッド）か　このやろう　！！」</p>
<p>そして、少しだけ鼻で笑い　意識を失なった。</p>

  </div> 
 </content>
 <updated>2010-12-10T22:32:11+09:00</updated>
 <published>2010-12-10T22:32:11+09:00</published>
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 <title type="text">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）50</title>
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   <name>shurei</name>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）50[　三十二　]　２００１年　皐月　...</summary>
 <content type="xhtml" xml:lang="ja">
  <div xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml">
   <p><strong>アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）50</strong></p>
<p>[　三十二　]　２００１年　皐月　翌日　午前１１：００</p>
<p>　　義兄と会場へは、大幅に早く到着してしまった。</p>
<p>告別式は午後１３：００からと聞いていたが、正午には皆々集まるだろうとも聞いたから　待合室のパイプ椅子に二人で陣取るように腰掛けていた。二人とも話しはしない、顔さえ時折合わせる程度だがお互い軽く頷き目線を其々違う方向に向けている。義兄の方が歳が上である分、ツーリングクラブのメンバーと各自と親しくまた、私より義父に可愛がられていた経緯があるから私より葬儀に駆けつけた面々と話をする回数が格段に多い。</p>
<p>「おい」　と義兄に呼ばれた時だけ隣に立って並ぶが、ご挨拶をする程度で済む。</p>
<p>こんな非常時な空間の中では、誰にも相手にされない方が返って自身の心地が良かったりするものであるから、私は陣取ったパイプ椅子を更に人目のつかない部屋の奥の奥へと勝手に移動させていた。</p>
<p>ツーリング・メンバーと久々に会っても</p>
<p>「逝くのが早すぎましたね・・・」　や「残念です。　本当に残念です。　」</p>
<p>それぐらいしか今の私に言葉が浮かばない。陳腐な言葉しか口に出せない自身に腹が立ってしまう・・・</p>
<p>　生前の・・・といっても　まだまだ実感として湧かないが様々な彼が私に残した言葉の数々を思い出そうとしていたら１時間と少しなど　すぐ過ぎてしまっていてその経過の早さに驚いたぐらいであった。</p>
<p>　その思い出してくることの量の多さにも我ながら驚いた。</p>
<p>この世には、どうやら　さほど努力の欠片さえなくとも成るものと血を吐くような想いをして邁進しても成らないものがあるらしい。</p>
<p>だが、今日の空の蒼さはなんだ・・・透き通るような　この空の色は成らないものでさえ、成ると思えてしまう確信を持たざるを得ない心地の良さがある。</p>
<p>雲、一つない。この蒼天を眺めていると私の心の色彩を染めてくれれば良いのになどと身体が望んでいるのが実感としてよく解る。</p>
<p>やはり、今朝呟いた　「この身体、空の微塵に散らばれ。」</p>
<p>この心象が一番近い気がする。空の微塵に散らばってしまえるのであれば、同化してしまえるのであればどんなに、虚無や疑心さえも感じること自体を感ぜず歓喜たる開放へと導いてくれるのかもしれない。</p>
<p>賢治よ・・・あなたは最愛の妹が死んで　どのように感じたのだ？「永訣の朝「松の針」「無声慟哭」そして「青森挽歌」そのひとつ、ひとつの文言に賢治は慟哭を重ね合わせいたのであろうか？それとも更なる先に無声なる慟哭があったのであろうか？</p>
<p>あなたと同じくなのか？私がもう一人の父と思えた彼がどうしたかったのか？その意図や動向が解らない・・・</p>
<p>　理解の及ばぬ　私などは、マイナスの思考が一旦始まると止めを知らぬほど加速した思考回路へと走り出してしまう。　こんな人間にプラス思考で考えよ　とどんな精神医学の権威がアドバイスをしてくれたとしてもその助言さえも自らに対して</p>
<p>足らぬ、足らぬ、全く足らぬ・・・どう足掻いても足らぬのだ。</p>
<p>そんな自分自身の負というを数えるばかりになってしまう。</p>
<p>貴重な思い出を全て思い出せないのも足りない私。</p>
<p>この身体が　この蒼天の空の微塵になれたのならば、そして　その身体が全て風のように微塵に散らばれたのであれば、足りぬと自己を罵る思いは皆無となるのではないであろうか？</p>
<p>　賢治も　トシが死んで　そう思ったのだろうか？賢治は恐らく想いの全てを書かずにいられなかった。その想いの全てを彼の中で完結に表現することが出来たのであろうか？天から降りてくるような、あの素晴らしく哀切に満ちた文言たち。一介の私には、素晴らしい・・・よくぞ・・・と思えても本当の賢治の想いは、恐そらく数パーセントにさえも覚束無いであろう・・・</p>
<p>では、義父はどうしたのであろうか？　　生前ならば</p>
<p>　義父が私の立場ならば　この状況をどうしていたのであろうか？</p>
<p>　少ない脳漿で考え抜いたが、ただ自身の口数が減るだけに留まった。これは正確に言うのあれば　ただ辿り着けない想いの行く先が飽和で行き詰まり状態だけなのであろう。</p>
<p>　　時折　眼を瞑り待合室の天井を眺めていただけだったから傍目からは随分と呑気で間の抜けた男と思われたか冷血な人間とも思われていたかもしれない。これは致し方ない。云わば「どうでもいい」</p>
<p>　そんなことを漠然と考えていたら、感傷に耽る間もなくいつの間にか葬儀の時間になっていた。私は、そこで初めて我に返りポケットに準備していた黒いネクタイを慌しく着用を始めたのだった。</p>
<p>　葬儀会場では、Ｇ線上のアリアが葬儀会場を静に覆うように流れていた。そういえば、彼はカソリックだったか？プロテスタントだったか？記憶が定かではないが洗礼を受けたことを以前聞いていたから焼香ではなく、顕花であることに改めて思い出し納得した。</p>
<p>　Ｊ．Ｈ　バッハのＧ線上のアリアか・・・</p>
<p>これもまた生前、里山で話になったことがあった。ある晩秋、私独りでオートバイを走らし里山に到着したときのことだ。土間から母屋に入るとかなり大きな音量でクラッシックが流れていたことがあり、誰の楽曲か聞いてみたことがあった。</p>
<p>「ブラームスだね・・・これは」</p>
<p>深い哀しみが帯びた弦楽の調べが、晩秋の空気に会い連れ添いそのままの印象を義父に言った。</p>
<p>「猫がね・・・昨夜　死んだんだよ。」</p>
<p>と　いつものように声も立てず静かに笑った。微笑む彼に若い私は違和感を感じながらも</p>
<p>「それじゃ　これは　あの子（猫）のレクイエムなんですね・・・」</p>
<p>彼に内在する哀しみも理解せず、一端の生意気な口を利いた。</p>
<p>「そう・・・バッハだと、　それもＧ線上のアリアあたりなら　もっとレクイエムらしくなるかもしれないけどね・・・　今は、そんな気分じゃ　ないんだよ。」</p>
<p>と　また私に向かい微笑んだ。私は、返答に困り　秋空に視線を移していた。義父も同様に母屋から続く縁側から透き通った空を眺めていた。</p>
<p>「こんな時に　こんな話をするのもなんですが・・・」</p>
<p>「なんだい？」</p>
<p>「カラヤンが指揮した[w]モーツァルト[/w]のレクイエムって良いなって思うんです。」</p>
<p>「ふーん・・・それは、またどうしてだい？」</p>
<p>「カラヤンって派手というか、華美というか、とにかく　ドラマテックじゃないですか・・・　それってか秘めた感情ですか？　放出させて泣いちゃえよって　言っている気がするんですよね。」</p>
<p>「それは、カタルシスとして考えれば正しいかもしれないね。　でもね・・・僕はあまりカラヤンは好きになれないよ。　それならバッハを掛ける方が良いかな・・・」</p>
<p>「バッハですか・・・僕もバッハは好きですよ。」</p>
<p>「僕も　バッハは好きだよ。　でも、今は・・・かけないんだ。」</p>
<p>「最近　モーツァルトはモーツァルトでいいのですが　昔　程好きじゃぁないんです。　交響曲４１番ジュピターや４０番の第３楽章は　今でも好きですが・・・　モーツァルトととは、何だか対照的に感じる気もしますね。　荘厳というか、透き通るような感じがします・・・バッハは」</p>
<p>「バッハは・・・道なんだよ。」</p>
<p>「道ですか？」</p>
<p>「そう・・・１本の道。」</p>
<p>　　そうか・・・あれは自分の言葉ではなかった・・・カオリに前、したり顔で話していた自分が恥ずかしい。皆が顕花をしている最中、こんなことを思い出し自分が　また嫌になった。</p>
<p>「[w]ＭＪＱ[/w]のピラミッドという曲があるんだが・・・　君は聴いたことがあるかな？」</p>
<p>「いえ、ＭＪＱ自体　まだ聴いていません・・・」</p>
<p>「オートバイで走るとき　頭の中に　何か音楽が流れるかな？」</p>
<p>「日本の[w]ＶＯＷＷＯＷ[/w]というハードロックでハリケーンという曲が　あるんですが・・・それが時折　流れるぐらいですか？」</p>
<p>「そのアーティストは知らないな・・・」</p>
<p>「ヴォーカルとギターリスト、あとキーボードの３人が天才だと　思っています。」</p>
<p>「それは、アップテンポなのかい？」</p>
<p>「ハードロックですからね・・・アップテンポです。」</p>
<p>「時折流れるのは、多分　法定速度内かプラス・アルファーぐらいでしょう？」</p>
<p>「最高速のときは　無音ですね・・・」</p>
<p>「うん、そうだと思う。　あの速度域にアップテンポは逆にあわないし　ミスを誘うと僕は思うんだよ。」</p>
<p>「ピラミッドは、そんな感じなんですか？」</p>
<p>「いや・・・部屋で聴いていると　あぁこれが一番オートバイに　乗っている感覚に近い音楽だな　と思うだけであって　ライディングの最中には、流れては来ないね・・・」</p>
<p>「今度、聴いてみます。」</p>
<p>「そうしなさい・・・」</p>
<p>　　その後、私の脳内に音楽が流れることが無くなった。いや、無くなってはいない、正しくはハードロックは勿論様々な音楽が流れるようなことがなくなったが単音のピアノが聴こえてくるようになった。龍の尾を追いかけているとき、錯覚であろう路上に光る道を走っているときに、心の全てが玲瓏たる無我の状態に近づいたときにポロン　とピアノの調べが鳴る。同じ音が２度・・・</p>
<p>だがいつまで経っても　それが曲であるか？どうかでさえ判らない。</p>
<p>　　無意識の状態で顕花を終えた。席二つ前の男は号泣をしている、よく知った年上のメンバーだ。周囲のあちらこちらですすり泣きの声が聞こえる。義父のクラブを長年　影ながら支えてきたサブ・リーダーが感動的な弔辞を読んだから尚更だった。</p>
<p>　でも私は泣かない。これは、私より遙かに悲しい人が　この場所にはいるのだ。その人の前では　泣いてはいけない・・・周囲に自分が如何に悲しいかなんて知らせる必要なのであろうか？本当に涙が止まらなくなりそうになったら静かに退席すべきであると　自分自身にルールを課しているだけだ。</p>
<p>昨夜、天王山トンネルで哀しみの爆発を起こした慟哭は私にとって大正解だった。あの場所で無様に泣き叫んだから　こそ今冷静にいれる。</p>
<p>葬儀が終わり、一人の古参メンバーに声を掛けられた。</p>
<p>「大沢くん・・・君は悲しくなかったのかい？　やけにクールでいたけど。　君は最年少のメンバーだったし、特別　目を掛けて貰っていた君が　そんなんじゃな・・・なんだか　それが残念だよ。」</p>
<p>「はぁ、すみません・・・こんな顔しか今は出来ないもので・・・　ご気分を悪くされるようだったら、申し訳ありませんでした。」</p>
<p>「それは、大野さんと奥さんに言うんだな・・・」</p>
<p>きちっと　喪服に着替えていた足早に古参メンバーは帰っていった。</p>
<p>　私の哀しみや、悲しみは誰にでも伝わらなくてもいい。私から見れば　葬儀の最中、号泣するほうが判らないのだから・・・醜悪さや、純度の低さを感じてしまうからだ。</p>
<p>奥さんと　ご挨拶をし振り切るようにして　その場を離れた。古参のメンバーの忠告は、しようとも思わなかった。</p>
<p>私の想いの純度は、必ず　義父に伝わる。そんな確信に満ちていたからである。　永訣の朝に登場する文言「まっがった鉄砲玉」たる私の想いはやはり賢治の「無声慟哭」なのであろう。</p>
<p>　人に気づかれない「無声慟哭」である「まがった鉄砲玉」は義兄にだけ　そっと</p>
<p>「大阪に　これから戻る」　とだけ伝え</p>
<p>先に葬儀会場を後にした。</p>

  </div> 
 </content>
 <updated>2010-12-06T23:54:26+09:00</updated>
 <published>2010-12-06T23:54:26+09:00</published>
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 <title type="text">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）49</title>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）49[　三十一　]　２００１年　皐月　...</summary>
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   <p><strong>アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）49</strong></p>
<p>[　三十一　]　２００１年　皐月　翌日　午前１０：３０</p>
<p>「あんな走りしてたら　おまえ、いつか死ぬぞ　」</p>
<p>首都高速３号線で友人が乗るツーリングワゴンを偶然、遭遇したのでクラクションを２度鳴らし私のスピードで追い抜き左手で軽く手を振り、そのまま車間をすり抜けていったことがあった。　後日、彼と会い居酒屋で酒を飲んだ席で忠告したのだった。</p>
<p>「誰だって　いつか死ぬさ・・・」</p>
<p>「そういう意味で言っているんじゃない。」</p>
<p>「そういう　意味だぜ？　」</p>
<p>「全く、おまえは話にならない・・・」</p>
<p>私も死にたい訳じゃない。死にたくはないと思っている。</p>
<p>でも、本当に生きたいのか？まで確信に至っていない。生き続けて何がある・・・解らないから生きている。何のために生きている？　その答えを追い求めている。</p>
<p>友人にも飽きれ顔をされ、酒の席は一瞬白けた。</p>
<p>　　昨夜も、また今　横浜の自宅から武蔵小金井までの間一体何人の人間が私の運転するオートバイに対してそのように思ったのだろうか・・・呪うような言葉も恐らく含まれているであろう。道路交通法という法規の中において許されざれるべきことではないことは自覚しているつもりだ。　そして、追い抜く車たちを「蹴散らす」感覚では追い抜いてはいない。私は私なりに慎重に追い抜いているつもりでいる。その追い抜くスピード、そのものが周囲からは常軌を逸しているだけのこと、つまり、ライディング自体は基本動作しか行っていない。極端な例えかもしれないが、教習所で習うようなことばかりである。アウト・イン・アウト、スロー・イン・ファーストアウト、ウィズ・インとウィズ・アウトの使い分け、後方の確認の仕方やウィンカーのタイミング、ウィンカーを作動させてから３秒程で車線変更すること。曲がる前には５０ｍ手前から車線変更をし完了すること。どれを捉えても、余りに普遍的であり特別なことは一切していない。ただ速度が道路速度標識より３倍が自己リミットとしているだけである。</p>
<p>　車にしてもオートバイにしても周囲（通常）の、身内ではない人間で違うこともし、挙げるのであれば彼らより、かなり遠くを観ていること。これは先の先にあるリスクを　より速く視認してしまいたいという臆病な心から生まれている。そして、１点を注視している状態であると　まるで周囲が観えなくなることを喩えスピードを出さない方々も覚えておいて損はないと思う。剣術を少し知っている方であれば「正眼に構える」という例えが近いと思う。相手の刃先や腕だけに集中しているのではなく、相手　全体を捉えるよう瞳孔が開くほど眼は開かず、やや瞼を１割ぐらいあろうか瞼の皮膚を下げるような感覚がよい。　この状態が続くと私の場合、感覚がより増していくよう思えるので実際の視覚以外の部分まで見えているような気にさえなれる。更に足のつま先の向きを極少々変えるだけでオートバイの向きが変ることに最初は驚くであろう。</p>
<p>　更にバックミラーを見る回数も　かなり多いほうであると思う。速度が２５０ｋｍ／ｈ以下ならば車線変更をする際は必ず振り返り後方確認を行う。こんなこと、実は多くの人は忘れるか面倒と思い行わない。車でもオートバイでも軽く流しているときは私のような馬鹿が　かなりのスピードで突っ込んでくるかもしれない・・・これもまた、事故に巻き込まれたくないという臆病な心から生まれている。常に自身の　この錯覚とも思ってもおかしくない今現在の感覚を疑っているだけなのである。</p>
<p>　　告別式の前に待ち合わせをしている。昨夜、浜松から電話を入れた兄のような男である。</p>
<p>オートバイを走行中、待ち合わせという言葉に一つの記憶が甦った。</p>
<p>約束の時間には、余裕で着きそうだ。</p>
<p>２３歳ぐらいだったか、独り暮らしをしている私に義父から電話が鳴り明日　都心までオートバイで出て来れないか？と聞かれ取り立てて予定のない私は、行きます　と答えていた。　翌日、夕方　六本木のクローバーという喫茶店とはいえ洋菓子のお店の喫茶室に訳も判らず、義父と珈琲を飲んでいた。確か彼の奥さんも一緒だったと思う。</p>
<p>「さあ、行こうか・・・」</p>
<p>と連れて行かれたのは、赤坂にある高級マンションの一室でありそこに住んでいた？　いや、居たのが日本人初の元ＧＰライダーだった。確か角川映画・主人公のモデルにもなっていた人だったからレーサーに疎い私でもぼんやりと分かったがどうして自分自身が　ここにいるのかが全く分からなかった。義父が主催していたツーリング・クラブの重鎮も顔を連ねている、でも私は当時クラブ最年少の小僧であるが恒例の紹介方法、</p>
<p>「この子はねぇ、いつか僕をオートバイで抜くって言うんだよ　面白いでしょう？」</p>
<p>と私が黙って赤面しているのをカラカラと楽しそうに笑いいつものように義父の左隣に座らしていたのだった。</p>
<p>　彼らは皆、オートバイがどうして文化として成り立たないのか？真剣に意見を交換していたし、その後も　そのＧＰライダーは義父の里山へ頻繁に来るようになっていたので、よく顔を合わせる機会に恵まれ温厚な彼はヨーロッパ参戦時代の話など細かく私に教えてくれて非常に興奮した思い出がある。中でも本戦の前　サーキットを周回中どこの、どの場所に何色の花が咲いていたなどコースにまるで関係のなさそうな事柄を記憶して軽く流していると結果的に　どうしてかレースの成績が良かった話は特に面白かったし、強い興味を覚えた。</p>
<p>　しかしながら、数年もすると元ＧＰライダーと義父はあまり会わなくなった。二輪業界全体に対する文化への要望など意見の相違が目立ってきたのであろう。ましてや、元ＧＰライダーが始めた教習所にて行う実践教育のライディングスクールは褒めていたが、氏が独自で始めた「二輪舞踏」という舞に嫌悪感を抱いていたように見えた。氏は「二輪（ふたわ）道」とお題目し、推奨し精力的な活動を行ったたが結果はどうだったのだろう・・・？どこのメディアの取り扱っていないので寂しい気もする。氏に対する嫉みや嫉妬、耳を塞ぎたくなるような醜悪な陰口も時折、聞きたくなくとも耳に入ってきた。それは、自身の血が日本ではないから日本人初のＧＰライダーではないといったくだらないものばかりだった。血なんて関係ない。本人が日本人と言えば、日本人でいいじゃないかそんな憤りさえ覚えたこともあった。義父も一切　そんな了見の狭いことは言わなかったのは今でも、胸を撫で下ろすような安堵感がある。</p>
<p>何にせよ、氏　然り義父もオートバイを通じた何かを本気で取り組もうとしていたのは事実だった。</p>
<p>義父が亡くなってしまった今、もう何も解らない。</p>
<p>　　</p>
<p>　　兄のような存在である一人は、もう待ち合わせ場所に到着し煙草を吸っていた。やはり彼も革ジャンパー、革パンツの黒い井出たちだったのが私を含み笑いを誘いおかしかった。義兄は笑いもせず、五月晴れの空の下　睨むように私を見つめていた。</p>
<p>「にいちゃんも　革ジャンか・・・　」</p>
<p>「オレらには、これがいいだろうよ。」　</p>
<p>「一応　黒いネクタイは持ってきたぜ。　　　　　　　　お袋には非常識って言われたけどな。」</p>
<p>「・・・　しかし、よく晴れたな。」</p>
<p>「告別日和なんてあんのかな？　こんなによく晴れてさ・・・」</p>
<p>「そんなもん　知るか。　おまえは本当に馬鹿だな。」</p>
<p>「うるせんだよ・・・」</p>
<p>いつもこんな調子の会話しかしていない。本当は恩のある・・・とはいえオートバイで殺されそうにもなっているが、私側が義兄を立てて慎まなければならないのだがどうにも上手くいかない。</p>
<p>「リュウイチ、ところで　おまえ昨日　何時間で大阪から走ってこれた？」</p>
<p>「３時間ちょいか・・・途中　浜松で３０分ぐらい飯食ったけどな」</p>
<p>「上の兄貴に言われるぞ、おまえも　まだまだ　だなってな・・・」</p>
<p>「言うだろうなぁ・・・」</p>
<p>「ＺＺＲだからな・・・言うだろう。」</p>
<p>「そう言えばさ、昨日　御殿場辺りでＦ３５５と軽いバトルになったんだよ。」</p>
<p>「ふーん、フェラーリーか・・・当然　おまえ勝ったんだろな。」</p>
<p>「最期、車間をオレがすり抜けてゲームセット。　バケモノクラスの巧いドライバーだったから　なんだかな・・・負けたっつう感じだよ。いや、あれは完全に負けだな。　あっちの方が数倍も余裕があった・・・」</p>
<p>「４輪はな・・・とんでもない奴が稀にいるわな。　ところで　あの人事故に巻き込まれたって昨日、おまえに言ったけど。」</p>
<p>「人づてに聞いたけど　知り合いか何か、違う人が　　偶々（たまたま）ドライビングしていたらしいね。　助手席にいたところ、ハイドロ（ハイドロ・プレーン現象）かなんか起こして　車はスピンして横転・・・結局　それが致命傷だったみたいだぜ・・・」</p>
<p>「代わりに運転していた　そいつの名前　おまえ分かるか？」</p>
<p>「知らねえけど・・・知ってどうするんだよ？」</p>
<p>「叩きのめしてやる・・・オレは悔しくて堪らねえんだ。」</p>
<p>傍目から観たのならば　ワイルドな風貌の義兄らしいといえば、義兄らしいが何か私には違和感を覚えた。その違和感は「らしくない」という感覚だったのだがお互い予期もできない義父の死に感情が高まっているのかもしれないと勝手に思い、黙っておいた。いつも冷静な男が珍しい・・・が　致し方ない。</p>
<p><span style="color:#ef3b00;">四月の気層のひかりの底を唾し　はぎしりゆききするおれはひとりの修羅なのだ</span>　　　　</p>
<p>　[w]宮澤賢治[/w]　『[w]　春と修羅[/w]　』</p>
<p>今は、皐月。　５月なのであるが、そんな義憤に駆られる義兄を観て今朝と引き続き賢治の言葉が浮かんだ。賢治の観た岩手山の麓（ふもと）、その場所の４月であればもっと空は澄み渡りながらも、北風の強い荒涼とした寂しい風景あったろう。都心で言う２月か３月ぐらいの季節が該当するのではなかろうか？</p>
<p>　しかし、今　二人の心の風景は春になりきるの前荒涼とした賢治が詠った東北のかの地で立っているような気分であるのは間違いであろう。</p>
<p>　短いやり取りの後お互い、またヘルメットを被り義父の告別式の会場へとオートバイを走らせた。</p>

  </div> 
 </content>
 <updated>2010-11-28T00:16:03+09:00</updated>
 <published>2010-11-28T00:16:03+09:00</published>
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 <title type="text">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）48</title>
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 <summary type="text" xml:lang="ja">アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）48[　三十　]　２００１年　皐月　翌...</summary>
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  <div xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml">
   <p><strong>アスファルトの告白　（伝　二輪生存家伝書）48</strong></p>
<p>[　三十　]　２００１年　皐月　翌日　午前８：００</p>
<p>　　明け方　何度か目覚めたが、浅い眠りに幾度もついた。長い続きのある夢を見たらしいが　もう覚えていない。携帯電話の目覚まし機能で午前８時にセットしておいたが数分か前に身体が起きボゥとしていた最中、アラームが今鳴った。酒量は、さほど多くはなかったので胃荒れもしていないし、吐き気もしない。ユミの一件以来、朝　鮮血で洗面台やトイレを汚すことも無くなった。それは、それで喜ばしいこのなのだが疑問が残る。　忘れたのか？　慣れたのか？　</p>
<p>とにかく二日酔いにはなっていない。</p>
<p>ただ昨夜、寝る直前に飲んだ睡眠薬半錠の苦味が乾いた口の中で残っている。</p>
<p>「<span style="color:#ef4300;">いかりのにがさ　また青さ</span>・・・ね・・・」</p>
<p>そうか、青いから悩むのだ。悩むから、寝つきが悪く眠れないのだ。３０過ぎて　未だに「青い」とは、一体どういうことだい？</p>
<p>「この身体、空の微塵に散らばれ。」</p>
<p><span style="color:#ef4300;">（このからだそらのみじんにちらばれ）</span>　　      [w]宮澤賢治[/w]　　<span style="color:#ff5d1e;">春と修羅　より</span></p>
<p>何かの呪文のように私は呟いていた。ベットの横に置いていたミネラル・ウォーターを口に含み　そのまま飲む。そして煙草に火をつける。１本を吸い終る頃　ようやく次にすることが浮かぶ。</p>
<p>何を着ようか・・・？</p>
<p>告別式なら通常、喪服だ。誰しもが、黒い服で男は黒いネクタイをする。それが　この国での儀礼でもある。</p>
<p>でも　私は今、迷っている。昨夜、着てきた　この革ジャンパー、革パンツの姿で参席した方がいいのでは？と　愚かにも悩んでいる。オートバイで知り合えた関係であるし、またオートバイによって深めた関係だから相応しく、むしろ　この方が「正装」と呼べるのではなかろうか・・・車が交通手段ならば、通常の喪服。でも、ブラインドを開け外を観ると見事な五月晴れだった。息を１回つき、確信に至り何度も頷く。</p>
<p>　交通手段は、オートバイだ。そして、私の正装で行こう。　革ジャンパーの下に、白いＹシャツを着て黒いネクタイを結ぶ為糊の利いた白いＹシャツをクローゼットから探しあて、黒いネクタイを極力綺麗にたたみ革ジャンパーの内ポケットに仕舞い込んだ。　続いて私は洗面台に行き、一度　水に浸したタオルで革のジャンパーとパンツの清掃をした。潰れた羽虫をタオルで擦り取り、違う乾いたタオルでワックスを塗りこむブラインド越しの朝日で革が輝いてきた。　</p>
<p>悪くない。</p>
<p>「君は・・・そうすると思っていたよ・・・」</p>
<p>静かに笑いながら、義父が呆れ顔をする、そんな映像が脳裏に浮かんだ。</p>
<p>上下革の服装の小脇に抱えたヘルメットの出で立ちでキッチンに入る。母は、「非常識じゃない？」と怪訝そうな顔し黙った。私も黙ってテーブルの席に着き、彼女のわざとらしいため息を無視する。理解は出来ないであろう・・・私もそう思う。しかし父は、珈琲を飲みながら</p>
<p>「ある意味、いいんじゃないか？」</p>
<p>と一言だけ私と眼を合わせ、言いながら読んでいる新聞に直ぐ戻した。「お父さんまで、そんなことを言って・・・」今度は露骨に不愉快な表情をしていたが、私には心地よい風が流れたような感覚を覚えたから、作ってくれた食事を無言で摂り始めた。</p>
<p>誰にでも理解してもらおうなど到底　不可能なことだがたった少数でも、そうたった一人でも理解して貰いたい人に理解して貰えればそれは、実に幸せなことなのであろう。</p>
<p>　朝食は１０分と掛からず済ませてしまい、慌しく外へ出てＺＺＲ１１００Ｃの洗車を始めた。洗車は、告別式に羽虫の屍骸で汚れた車体で向かうの失礼ではないか？という想いはあったには、あったのだが・・・正直、待ち合わせ時間までに時間を持て余してしまいそうだったからである。</p>
<p>告別式が行われる会場は、武蔵小金井周辺。鎌倉街道経由で走れば、１時間はまず掛からない。せいぜい３０分前後で到着出来るであろう。その代わり道路法規を守るのは　信号だけとなるが・・・であれば、過分なほど洗車の時間はあるわけだ。</p>
<p>落着いてゆっくりと、車体の水洗いをし乾拭きを丹念に行う。そしてワックスを掛けてホイール、タイヤまでケミカル用品を使用し洗車をした。</p>
<p>　　　本日の夜には、また大阪に戻っていることであろう。だからアッパーカウルの透明なシールドとヘルメットの　これもまた無色なシールドも念入りに綺麗にしておこう・・・些細なことだが重要なことだ。</p>
<p><span style="color:#002ef9;">ー　前が見えなければ、前には走れない。　ー</span></p>
<p>義父が何度も言っていた・・・</p>
<p>「スプリントのレーサーならば　話は分かる。　濃いスモークのシールドを装着すること　その日、その時の天候状態に合わせるという意味でね。　だけど、アッパーカウルやヘルメットのシールドをストリートの　オートバイが態々　濃いスモークにするなんて　格好だけだね。　見えづらくさせているのだからね。　今度、雑誌やらでよく見てごらん　ヨーロッパの耐久レースのライダーが深夜を走る際　濃いスモークのシールドを装着しているかどうか・・・　僕らはね、朝でも昼でも　そして真夜中でも走るんだ。　もっともスプリントのＧＰライダーのレプリカヘルメットを　そのまま販売しているメーカーにも問題がある。　彼らは今、売れるから濃いスモーク・シールドのヘルメットを　販売するが、視界を悪くしたばかりに目視確認が出来ず　怪我をした人の統計は出していないだろうね・・・　到底　死者の数なんて間違いなく把握してやいないだろう。　それは、どうしてだろう？　目先の販売数増加による増益以外　何も考えていないからだと僕は思っている。　なんでだろうね・・・　事故や死亡により　オートバイに乗る人間は　年々減っていく。　　それはメーカーの首を絞めていることなんだがね。</p>
<p>　死にたくなければ（生き残りたければ）シールドは透明にしなさい。　そして日差しの強い日だけに天候にあったサングラスをすればいい。」</p>
<p>汚れたシールドで視界不良のため事故を起こし、死んでしまったのならば悔やむに悔やめない。サングラスを掛けて走っていた私に忠告した際、そのように付け加えていた。</p>
<p>そのあと話しは確か　このように続いた。</p>
<p>「サングラスはね、色眼鏡とも言うでしょう？　色眼鏡・・・つまり凝り固まった人の概念とも言う。　偏見といっても良いだろうね。　自分の見方に凝り固まった物や人の見方をする人間は　自らのフィールド（生きる場所）を狭くする　つまり、自らの格好を優先させると前には進めなくなるということだね。　君の実生活にも頻繁に起こりうることだよ。　自分が凝り固まった概念であるのかどうか、自分自身で疑ってごらんなさい。</p>
<p>　　オートバイで走ることは、本当に色々なことを教えてくれる。　でも、些細な細かいこと誰も気づこうとしないし　格好を優先させたいから、何も考えようともしてないんだろうね・・・　同じオートバイ乗りとしては、哀しいことだね。」</p>
<p>　私は愚直にも　これら多くの忠告を守ろうと心がけては、いる。だが長年に亘る数多くあった忠告の全てを覚えていないのは、悔しさを覚えるほど腹立たしい。</p>
<p>まだ、何かあったはずだ。大切な何かが・・・それを私は忘れてしまっているのだ。</p>
<p>こんなこともあった。</p>
<p>　ジェット・ヘルメットを私が購入して来たことがあったときだ。顎（あご）のラインが大きく開くジェットヘルメットは確かに夏場など心地いい。シールドも装着されているから砂塵が頬や目に当たらず便利でもある。何よりスタイリッシュだから愛用していた時期があった。里山に滞在し、帰り際に恒例の右手首を肩口まで上げたまま握手をした時彼は私の眼を見つめたまま</p>
<p><span style="color:#000ee0;">「ジェット・ヘルメットは辞めなさい。　事故の時、顎が砕けるから・・・」</span>とはっきりとした口調で伝えてきた。</p>
<p>「前のフルフェイスが　もうクタビレてしまっていますから　アルバイトの給料が出たら買いますよ・・・」</p>
<p>私は、即答したもののまた購入しなきゃいけないものが増えるのか　と少々うんざりしていた。</p>
<p><span style="color:#0000e5;">「事故が、いつ起こるかなんて誰もわからない。　出来るだけ早く買いなさい。」</span></p>
<p>私の思いを察したかのように彼は追い討ちを掛けたが次の給与の使い道は既に決まっており確か、格好のよい靴か何かを買おうとしていたと思う。とにかく生死を別けるような品物ではなかったことだけは間違いない。</p>
<p>それから、２，３日もしないぐらいで単独で西伊豆へ行く用事が出来た。季節は２月の下旬だったと思う。</p>
<p>その日の朝　どういう訳か義父の言葉を思い出していた。</p>
<p>ジェットヘルメットは危ない・・・</p>
<p>直感的にボロボロに使い古したフル・フェイスタイプヘルメットを納戸の奥から引っ張り出し、被り、当時乗っていた　Ｚ１-Ｒを走らせた。</p>
<p>　その数分後、私は空を飛んでいた。</p>
<p>スピードの乗る国道をいつものように飛ばし、いくつか目の交差点で右直事故に巻き込まれ衝突した１台後の乗用車のボンネットに頭からダイビングをしていたのだった。気づいたとき私は救急車の中で横たわっていてオートバイのフロントはくしゃくしゃに大破してしまっていたが私は打撲程度で済んだ。とはいえ、革パンツが裂け皮膚から血が流れていたし膝の辺りと同様、首に鈍痛を感じていたからそこそこの怪我ではあったろう。病院へ運ばれ、処置が終了の後　事故の当事者である相手方の車に乗りアパートに到着して何気なくヘルメットを見て寒気が走った。</p>
<p>フルフェイスのヘルメットは、右顎から脳天に向かい大きな亀裂が走っていたのであった。もし、ジェットヘルメットだったのならば一体どうなっていたのであろうか・・・？顔は割れた柘榴（ざくろ）のように頭蓋骨の原型を留めず恐らくは、死んでしまっていただろう・・・</p>
<p>「ジェットヘルメットは辞めたほうがいい。　事故を起こすと顎が砕けるからね・・・　ましてや・・・半キャップなんて全く話にならない。　乗り手の　てめぇだけ死ぬのなら　まだ　そりゃあんたの勝手だが　後部座席に乗せる女の子に被せて事故になったらって想像してごらん。　顔は砕けて、一生残る傷が延々と彼女につきまとうんだぜ　それを心の負い目を感じて生きていく・・・　そこまで考えて後ろに乗せなきゃな・・・」</p>
<p>それ以来　幾度か、後輩や年下のオートバイ乗りにまるで義父になりきったかのように言っていたこともあった。</p>
<p>　ヘルメットのシールドを綺麗にすると落着く。アッパーカウルのシールドまで綺麗にすれば、尚落着く。リスクが減っていることを実感するからだ。</p>
<p>綺麗になった二つのシールドを眺めて満足し、煙草を一服した。出発の準備は整った。さあ、告別式の会場へ行こう。不思議と今は悲しくはない。</p>
<p>フルフェイスのヘルメットを深く被り、丁寧にストラップを閉め固定する。キーをＯＮにし、チョークも掛けずセルを回すと高音と低音が不規則に混ざるチタンエキゾーストが一瞬　うなり声をあげすぐ２本出し特有の不規則なアイドリングが始まった。オイルのレベルも良いようだ。大阪へ戻ったら交換がまず必要だろう、昨夜　かなりエンジンを回しすぎているから間違いなく汚れているだろう。両手にライディンググラブを嵌めて義父から教わった恒例の儀式を行う。</p>
<p>オートバイに跨り、タンクの真上で両手を合わせそしていつもように呟く。</p>
<p>「何があっても恨みません。全てをお任せ致します。」</p>
<p>　　今日は本当に　いい天気だ。悲しみに曇天は厳しいが、五月晴れならば悲しみも蒼天に解けていきそうだ。</p>
<p>クラッチをローに入れ、庭の手入れをしている実父に１度手を上げ挨拶し、我侭で不埒な息子は告別式へと走り出した。</p>

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 <updated>2010-11-20T23:08:54+09:00</updated>
 <published>2010-11-20T23:08:54+09:00</published>
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